Pocket

[書籍紹介・目次] [佐藤郁哉氏推薦コメント]

なぜこのような結果が生じたのか,結果はわかっているのに,その原因がはっきりしないことは多い。原因が作用するには,その場所と時間などのコンテキスト(文脈,背景,状況,環境など)がかかわるはずだ。場所というコンテキストは多様に広がり,企業の内部組織などの特定部分,国やその特定地域などがある。時間も同様で,特定の時点や期間が長いか短いかなどである。さらに原因とコンテキストはどのように組み合わさって結果を生み出すのか。その因果メカニズムはどのようなものか。これらの問題は広く因果推論と呼ばれる領域で扱われる。

この因果推論問題は多くの科学分野で基本的な問題であるだけではない。多様な分野の事例で絶えず生じている。例えば,ロシア革命や中国の共産主義革命はなぜ起こったのか。アフリカや中南米で民主主義がなかなか育たないのはなぜだろうかという政治の領域の問題がある。日本の若者世代の単身化,晩婚化,少子化は何が原因かといった社会問題もある。もっとミクロな領域でも因果推論は多くの人の関心を引き寄せている。障がい者施設や小学校での無差別殺傷事件はなぜ起こったのか。特定個人の結婚はなぜ成功し,また失敗するのか。週刊誌や新聞の三面記事では日々この種のニュースが繰り返し報道されている。

本書で対象にする経営事例でも因果推論問題は多くある。大きい事例としては,例えば東芝など名門企業においてすら不正会計など不祥事が長年続いたのは何が原因だろうか。ユニクロはなぜ急成長し,セブン- イレブンが長期にわたる高収益を維持しているのはなぜか。アマゾンが流通世界の覇権を握ったのはなぜか。経営事例はこのように枚挙にいとまがない。いずれにせよ,経営実務の世界では因果推論への対応は,短期的にも長期的にも,企業の盛衰をかけて対応しなければならない基本課題といってもよいだろう。

因果推論はこれまで統計学の独壇場であるかのように取り扱われてきた。統計学による因果推論の大前提は,推論に必要なデータが十分に整備されていることである。たしかに種々な調査や統計データの整備,POS やスマートフォン,さらには監視カメラなど種々な情報機器を通じて収集されたデータの電子化が進み,多様なデータベース構築がなされるようになった。これらの情報を統合して種々なビッグデータが作られている。統計学的な因果推論の大前提は多くの分野で急速に満たされつつあるといえよう。因果推論を統計学の独壇場かのように理解する理由はこのような事態を背景としている。

他方で,経営事例にはこのような統計学利用の大前提を満たさない事例も多い。典型的には種々な革新事例がある。例えば,新製品や新規事業の開発などの企業革新について,初期目標の達成が明らかになるまでの比較的短い期間については,その類似事例は存在しないか,あってもごく少数である。また消費者革新,つまり消費者行動上の大変化を示す先端的な消費者行動についても事情は同じだろう。革新事例をできるかぎり即時的に研究しようとする場合,データ上の頻度主義に基づく伝統的な推測統計学は無力である。

特に学術的な研究者ならデータが揃うまで時の推移を待つという手もあろう。しかし経営世界での実務家にとっては,時を待つという手は必ずしも使えるわけではない。待っていれば機会を逸してかえってその経過時間は大きい機会損失を生むかもしれないからだ。特に経営革新を目指す企業家,消費者革新をできるだけ早く発見しようと努力するマーケターは,この機会損失を避けるべく「時は金なり」という警句を十分に意識している。タイミングは決定的に重要である。

とはいえ,このような単独事例や少数事例という情報状況の中で,因果推論をどのように行えばよいのだろうか。これは特に革新事例の即時的研究ではつねにつきまとう問題である。因果過程追跡という手法は,このような問題状況で,事例分析など質的研究に不可欠な用具として登場した。それは単独あるいは少数の事例における因果分析で使われる。

この手法は,特に政治学や社会学の領域で前世紀の後半から急速に発展した。そこで,方法論としての理論的整備や各分野への応用事例が欧米ではすでに報告されはじめている。経営学の領域では因果過程追跡技法への対応は,これまでのところ立ち後れている。しかし,この種の分析の重要性もまたその分析を要する事例数の少なさも政治学や社会学に劣らない。むしろその導入と発展は経営学の今後の発展に不可欠であろう。

筆者は今まで因果過程追跡にかかわる方法論について以下のような著作を公刊してきた。

・『リサーチ・デザイン:経営知識創造の基本知識』(白桃書房,2006)
・『経営事例の質的比較分析:スモールデータで因果を探る』(白桃書房,2015)
・『経営事例の物語分析:企業盛衰のダイナミクスをつかむ』(白桃書房,2016)

『リサーチ・デザイン:経営知識創造の基本知識』では計量的手法と定性的手法をリサーチ・デザインの観点から比較しながら,どのような研究状況でそれぞれの手法を使うべきかを論じている。後の2著は定性的手法としての因果過程追跡にかかわっている。『経営事例の質的比較分析:スモールデータで因果を探る』は,革新事例の以後の経緯として事例数が若干増加しはじめる状況での方法論である。革新事例の模倣者や追随者が出現して因果過程が複雑化しまた錯綜する。質的比較分析は,このように複雑な因果関係を分析するための技法である。最後の『経営事例の物語分析:企業盛衰のダイナミクスをつかむ』は,革新が成功して以後の長期持続成長へ途を歩む際の長期にわたる因果過程追跡である。

しかしながらこれらの一連の著作の中では,革新事例の初期状態での因果過程追跡はそれに特に焦点を合わせて扱っていない。初期状態というのは,革新の模倣・追随があったにしてもごく少数の事例しかまだ存在しない状態である。このような状況では『経営事例の質的比較分析:スモールデータで因果を探る』で述べたQCA(質的比較分析)技法でさえも,事例数があまりにも少ないので適用が難しい。本書ではこの状況のもとで因果過程追跡をどのように行うかを特に念頭に置いている。そのテーマの特質から見ると,本書は『リサーチ・デザイン:経営知識創造の基本知識』と並び,因果過程追跡についてまず最初に読むべき入門書の位置を占めている。

先端的な研究者の間で因果過程追跡という手法が急速に普及した理由の1つは,その方法を使うのに統計学のような技術的訓練を要しない点にある。料理ではレシピのような適切な手引き書があれば,その論理を直感的に理解するのは容易である。しかし,因果過程追跡という手法については残念なことに適当な手引き書が国内でも外国でも存在しない。たしかにGoogle scholar in English などのウェブサイトで,process tracing を検索してみると,因果過程追跡を論じたかなり多くの学術論文を発見できよう。しかしビジネスパーソンや学生がこれらの論文を読めたとしても,因果過程追跡の手法をすぐに使いこなせるようになるというわけではない。それらの論文のほとんどが専門的な細かい論点に焦点を合わせているからである。

そこで本書はこれらの研究成果を踏まえて,因果過程追跡のいわばレシピを提供しようとするものである。。料理のレシピを使用すれば,誰でも料理名人が作るのに近いおいしい料理を作ることができる。レシピには必要になる食材分量や調理器具,所要時間だけでなく,調理作業の順番と各段階での注意事項などが詳細に記されているからである。本書は因果過程追跡のレシピとして,ビジネスパーソンや学生が特定事例の因果過程追跡をする際に踏まねばならない手順と各分析段階での考慮点を提供している。本書を読んで理解するにあたっての事前知識は何も前提としていない。料理レシピと同じように,関心ある特殊事例についての因果過程追跡を,本書からはじめることができよう。

 しかし,本書には料理レシピと違う点がある。料理レシピの手順はそれによって食材の味にどのような化学変化が生じるかを踏まえたものであるが,そのことについてはほとんど触れていない。本書ではこの化学変化に対応するものとして,手順の各段階の考慮点がなぜ必要かも論じている。食材というモノを対象にする調理に比べると,人間の多様な活動を対象にする因果過程追跡では,その分析ははるかに難しい。この手法をうまく使うには調理に比べ,はるかに多くの配慮が必要になる。

もともと本書は著者の研究ノートであった。大きい実証問題を追究する際,因果過程追跡の利用を迫られ,学術論文を渉猟しながら研究上の手引きとして作成したものである。この研究ノート作成の焦点は,因果過程追跡の実際的な手順と,その手順を実証問題に適用しようとする際の考慮点や,実際に適用してみて出会った諸問題をメモすることであった。この手法の最新成果を踏まえた容易に入手できる手順書が皆無であることから,この研究ノートに手を加え出版することにした。

2023 年2 月16 日
田村正紀

[書籍紹介・目次] [佐藤郁哉氏推薦コメント]

田村正紀 著
出版年月日 2023/07/26
ISBN 9784561267836
判型・ページ数 A5・152ページ
定価 本体1818円+税