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韓国におけるベーシックインカムへの関心の高まり
ベーシックインカムBasic Income は、「政府が全ての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされる額の現金を無条件で支給する制度」(『ベーシック・インカム入門』山森亮著、2009年、P21-23)と定義される。韓国では、直訳して「基本所得」という用語が使われることが多い。

さて、10 年ほど前の2010 年ごろ、日本の社会保障研究の分野ではベーシックインカムに関する議論が盛んになっていた。当時、国内外で韓国の研究者に接する機会が多かった筆者は、彼らとベーシックインカムについて話をしたことが何度もあったが、「無条件で全ての人々に現金を給付するなんて、そんな夢のような政策……」といったような反応がほとんどであった。当時の日本では、ベーシックインカムに関する論文や研究書及び翻訳書が多数刊行され、学会や研究会でも取り上げられることが多かった。しかし韓国の研究者の間では、現実の政策としてはもちろん、知的興味としてもベーシックインカムが議論の対象になることが少なかったのである。ところがその後、状況は急変する。

それを分かりやすく示しているのが図解説-1 で、日本と韓国の代表的な論文検索システムを利用して、ベーシックインカムをテーマとして発表された論文件数を調べその推移を示したものである。そこに見られるように、日本では、2000 年代後半から2010 年代初頭にベーシックインカムに関する論文が多く発表されるが、その後、急速に減っていき、近年は再び増加傾向に転じている。それに対し韓国では、2010 年代前半まで稀であった論文件数が、2010 年代半ばから急速に増え、後半になると、日本のそれを大きく上回る。ピーク時の2017 年あたりにその数は、日本の5倍近くにも達する。その後、論文件数が減っていくが、2020 年に入ってからは再び急増する。この点については後に述べる。

いずれにせよ、この図を通して韓国の学界におけるベーシックインカムへの関心が、日本よりはるかに高いことを確認することができる。本書で詳しく紹介されているように(主に第二部第7章)、韓国で2000 年代を通じてほとんど議論されることのなかったベーシックインカムが、2010 年代前半になると、海外のベーシックインカムの議論を紹介することに始まり、2010 年代後半以降には国内向けの政策構想が展開され、より最近では、実際の導入のための具体的な社会保障制度の改革にまで議論が深まっている。現在、韓国では日本に比べ、ベーシックインカムに関する関心が高いと言ってよい。

2018 年に刊行された本書は、まさに以上のような韓国におけるベーシックインカムに関する関心の高まりを示す代表的な研究書の一つである。ベーシックインカムに関する理論的及び歴史的考察(第一部と第二部)から始まり、そこで浮き彫りになる社会保障制度とベーシックインカムの関係に関する制度論的及び政策論的考察(第三部)、そして、社会保障制度との関係を念頭に置いたベーシックインカムの実際の導入に向けての改革(第四部)まで、多方面に渡って幅広くかつ深く議論が展開されている。基本的に韓国国内の状況をベースにした議論展開であるが、日本を含む他の国々に対する示唆も豊富である。

その示唆を考える際に、近年になって韓国においてベーシックインカムへの関心が急速に高まった背景には何があるのかという点に注目しなければならない。10 年ほど前まで、現実の政策としても知的興味としてもさほど注目を集めなかったベーシックインカムが、ここまで関心の対象になったのはなぜか。ベーシックインカムへの関心の高まりの背景には何があり、その韓国の経験はどう捉えればよいのだろうか。

本書に見る韓国の経験を単に一つの海外事例としてではなく、それが日本を含む他の国々に対して示し得る学問的及び実践的意味を見出そうとするならば、上記の問いへの答えを探ることが重要であろう。もちろん本書は、韓国国内向けに書かれたものであり、それらの問いについて必ずしも明示的に意識しているとはいえない。そこで本稿では、韓国でなぜベーシックインカムに関する議論が活発に行われるようになったのかについて解説するとともに、その適切性や妥当性についての検討を通じて、日本における本書の意義を考えることとしたい。

ベーシックインカム導入論に関する、韓国・日本の、欧州との違い
ベーシックインカムに関しては、言うまでもなく、韓国だけでなく欧州の多くの国々においても議論が展開されており、そこにも大きな示唆を見出すことができる。しかしながら、それらの国々におけるベーシックインカムに関する議論に比べ、韓国のそれが日本にとってより興味深い点は、韓国でベーシックインカムが議論される政策的あるいは制度的文脈をみると、日本と類似しているところが多いことである。

即ち、欧州の多くの国々では、失業者や貧困者の生活困窮に対応する社会保障制度の仕組みが、「働くと給付が受けられない」つまり労働と福祉のトレードオフとして設定されていることが問題となり、それを「働きながら給付を受ける」という、労働と福祉の両立関係へ転換するための政策としてベーシックインカムが注目されている。それらの国々では、従来の社会保障制度の仕組みにおいて、「給付を受けるために働かない」という選択をする人々が多く、そのため長期失業者や貧困者が増えていることが問題とされており、ベーシックインカムの導入によってその改善が期待されているのである。

それに対して韓国では、そもそも失業者や貧困者の生活困窮に対応する社会保障制度が十分に整っていない。後に本格的に検討するが、安全網としての社会保障制度の網の目が大きすぎるために、そこから抜け落ちてしまった人々の貧困が深刻化する状況が見られている。韓国でベーシックインカムが注目されているのは、従来の社会保障制度に見られるその機能不全を解決するためである。

要するに、欧州と韓国の間ではベーシックインカムが議論される政策的あるいは制度的文脈が大きく異なっている。そして、日本の社会保障制度の現状は、欧州諸国より韓国の状況に近いということを強調したい。そのため日本における、ベーシックインカムを含めた社会保障制度の改革の方向性や展望を考えるためには、本書で扱っているベーシックインカムをめぐる韓国の経験から得られる示唆が非常に大きいといえる。この点を念頭に置いて本書を読むことで、韓国の経験からの示唆がより現実性を持ち、かつ鮮明な形で浮かび上がるであろう。この点について、最後でもう一度取り上げる。

本論の構成
さて、ベーシックインカムを巡る韓国の経験を検討するに当たり、2019 年末に始まった新型コロナウイルスの感染拡大によるさまざまな危機的状況(以下、「コロナ危機」)に着目することが有用である。なぜなら、上述のように、韓国でベーシックインカムへの関心が高まった背景には、従来の社会保障制度の機能不全があるが、今回のコロナ危機の真っただ中にそれが一層明白となり、その代替となる新しい政策としてベーシックインカムが急浮上したからである。

もちろん既に述べたように、韓国でベーシックインカムに関する政策構想や実際の導入のための改革が議論されるようになったのは、コロナ危機以前からである。しかし、従来の社会保障制度の機能不全が明確となり、そこで、ベーシックインカムがより現実味を持った政策として議論されるようになったのは、まさに今回のコロナ危機のさなかであった。後に紹介するように、コロナ危機、中でもそこで発生した失業や貧困問題への対応として、「災難基本所得」という名称で、全ての人々に対する無条件での給付が迅速に行われたことが、ベーシックインカムの実現可能性を示唆するものとして多くの人々に受け止められるようになった。

以上を踏まえ、まずコロナ危機のさなかで一種のベーシックインカムとして実施された災難基本所得の展開と、そこにおけるベーシックインカム導入論の広がりを簡単に紹介する。次にベーシックインカム導入論の背景に着目しつつ、社会保障制度とベーシックインカムの関係性について考察し、韓国におけるベーシックインカム導入論の意義と限界及び課題を検討する。それを踏まえ最後に、ベーシックインカムを巡る韓国の経験が示唆するものは何かを考える。以上を通して示される論点が本書の批判的な読解のための素材になることを期待したい。

本稿は『ベーシックインカムを実現する』解説の「1.ベーシックインカム論とその限界」冒頭「はじめに」の転載です。ウェブで読みやすいよう、引用文献の示し方や空行を加えるなどに再編集を行っています。
以降の章立ては下記のとおりです。
2.コロナ危機によって韓国で広がるベーシックインカム導入論
3.社会保障制度とベーシックインカム
4.韓国におけるベーシックインカム論を越えて

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