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書籍紹介][目次][訳者解説抄録

社会科学の分野では,考えられる限りほとんどすべての領域において,膨大な量の研究が発表されています。しかしながら,それらの研究は多くの場合,少なくともその影響が及ぶ範囲という点では,以前と比べて特に大きな違いをもたらしてはいないようです。当然ながら,そのような研究に何らかの価値があるとしても,それはごく限られたものでしかありません。実際,その種の研究のかなりの部分は,特定の社会的文脈についてだけ関連性を持つ,いわばローカルなレベルの知識の生産という程度にとどまっているのです。しかし,研究とは本来,例えば自省的かつ批判的で分析的な視点を身につけるという点では,学問上の能力を構築していくことでもあるはずです。つまり,研究は,人類全体に利益をもたらすような価値を持つ新しい知識の生産を目指す営みであると同時に,一方では能力開発の試みでもあるのです。

研究の目的やその結果がどのようなものであれ,研究者個人と研究者コミュニティの双方にとっては,具体的なリサーチ・クエスチョンを設定したり特定の推論の方法を選ぶ以前の段階で物事について批判的かつ自省的なスタンスで考えるようにする,ということが非常に大切なポイントになります。その場合に重要なのは,研究をおこなう際の思考過程や方法論,特に,理論の前提になっている事柄と特定の用語法について自省的(自覚的)になるということです。

しかし,研究者はともすれば,これまで明らかな事実とされてきた事柄あるいは既成の概念や推論の仕方について改めて問い直すことができるような能力の涵養をおろそかにしがちです。むしろ研究に関する既存の枠組みや約束事を無批判に受け入れた上で,それを再生産してしまうのです。事実,現在の学問の世界では主流の理論や研究方法の基準化の傾向が支配的であり,実際に多くの国の研究者は決まり事に対して従順で保守的であり,また彼ら・彼女らには周囲の期待に同調して仕事をするという傾向があります。そのような人々は特定の研究分野の枠の中に安住して,そこで支配的になっている既存の枠組みや社会的圧力を唯々諾々と受け入れてしまいがちです。その結果として,設定されるリサーチ・クエスチョンや学術用語,あるいは最終的にたどり着く結論([あえて研究などしなくても]*最初から結論が出てしまっている場合も多いのですが)でさえも,きわめて狭い範囲に限定されてしまうのです。

本書で私たちは,そのような同調的な傾向によって生み出されてきた幾つかの問題を取りあげた上でそれらに対して挑戦します。また,批判的思考を心がけることや,型にはまらない独創的なリサーチ・クエスチョンを提起することを目指すアプローチが持つ重要性について強調していきます。そのようなアプローチにとっては,研究の際に用いる概念や前提に関してシステマティックな形で問い直していく作業をおこなう上で不可欠な条件となる論理的根拠と方法論を提供することが特に重要なポイントになるはずです。私たちは,このような提案が1つの手がかりになることによって,より魅力的でありかつインパクトがある研究が増えていくだけでなく,広い視野を持った有能な研究者が育っていくことを期待しているのです。

私たちは,本書の日本語版が刊行されることを非常に喜ばしく思っています。欧米の学術界では,この本にこめられた中心的なメッセージ,つまり,支配的な既存の前提について明確に認識してそれに対して疑問を投げかけること,そしてまた通念的な発想をそのままの形で通用させないように心がけるという発想は,きわめて大きな影響を及ぼしてきました。私たちは,本書が,日本においても研究者や学生たちに対して好ましい影響を与えていくことを期待しています。

2023 年1 月 ルンドおよびブリスベンにて
マッツ・アルヴェッソン,ヨルゲン・サンドバーグ