韓国の次期大統領選を占うイシューの一つとして、ベーシックインカム(韓国語では漢語を使って「基本所得」と呼ばれています)への注目が集まっています。9月末刊行予定の『ベーシックインカムを実現する』の解説において金成垣氏(東京大学准教授)が触れているように、コロナ禍において「災難基本所得」の給付がなされ(解説の抄録はこちら)、さらに基本所得党から2020年総選挙で国会議員を出すなど、政治的にも、その実現に向けた具体的な動きが進んでいます。
そこで、本書の監訳をお願いした木村幹氏(神戸大学大学院教授)に、歴代韓国大統領が選ばれる際、市民が実現を望んできた「夢」を振り返りながら、ベーシックインカムが注目されるようになった背景について寄稿いただきました。
韓国大統領選挙が持つ特質と国民が託してきた「夢」
2022年3月。韓国では「第20代」大統領選挙が行われる。とはいえ、それはこの選挙で選ばれる大統領が韓国史上20人目の大統領になる、という事ではない。何故なら、韓国では「選挙」が行われて大統領が選ばれる度に、これを新しい「代」として数えているからだ。だからこの数え方では、1948年と52年、そして56年の大統領選挙で当選した李承晩が、初代、第2代、第3代の大統領、そして、63年、67年、71年、72年、78年の5回に渡り当選した、朴正熙が第5代から第9代までの大統領という事になる。
この12年と18年の長きに渡って韓国の指導者として君臨した二人に加えて、全斗煥もまた80年と81年の2回に渡り、大統領に選出されているから、この国には現在の文在寅に至るまで、これまで12人の大統領が存在し、2022年に選ばれる大統領は、1948年に建国された大韓民国において13人目の大統領となる計算だ。
重要なのは、長く権威主義的な体制が続いた韓国では、他の大統領制が導入されている国より大統領への権力集中が進んでいる事だ。その巨大な権力の一端を説明すれば以下のようになる。例えば、大統領制を取る国の多くにおいて、議会が通過させた法案や予算案への拒否権が大統領に与えられているのは、三権が互いに大きく引き離されているため、議院内閣制の国において内閣が有するような議会への法案や予算案を提出する権限が、行政府の長である大統領には与えられていないからである。しかしながら、韓国において大統領は、国会が通過させた法案や予算案への拒否権を有すると同時に、国会に法案や予算案を提出する権限をも同時に与えられている。だから少なくともこの点について韓国の大統領は、大統領制の国における大統領の権限と、議院内閣制の国における首相の権限の両方が重複して与えられている事になる。
韓国の大統領の権限の大きさを如何にして評価するかについては、これまで多くの研究があり、ここでそれを詳細に紹介する必要があるとは思えない。しかしながら、ここで強調すべきは、この様に制度的にも実質的にも大きな権力を与えられた結果として、韓国においては大統領が、例えば、同じ三権を構成する筈の国会や裁判所と比べても、突出した重要性を持つ存在だと認識されるようになった事である。
だからこそ、韓国において大統領選挙は、常に大きな注目を浴び、各政党はこの選挙に勝利する事ができる人物を絞り込む事になる。そして当然の事ながら、その結果として選び出される候補者は、何かしらの大きなメッセージを体現し、大きな「夢」を描く事を要求される。
そしてある段階までの韓国においては、大きな「夢」が二つあった。重要なのは、今日に至るまでの韓国が、同様に第二次世界大戦後に独立を獲得した多くの国々の中でも突出した、二つの世界史的な成功を収めている事である。即ちその一つは1960年代以降の経済成長であり、その実現によりかつてアジアの最貧国の一つであった韓国は、1980年代後半までに、当時NIEsと呼ばれた新興工業経済地域の一つまでに浮上した。韓国が成し遂げた成果の二つ目は民主化であった。再び、第二次世界大戦後に独立を達成した国の多くはその後、軍事クーデター等により民主主義体制の崩壊を経験する事となった。かつての韓国はその様な「独立後の民主主義的体制が崩壊した後、長期に渡って権威主義的な体制が続くアジア・アフリカ諸国」の一つに過ぎなかった。だからこそ、その韓国が劇的な民主化を実現した事は、世界の耳目をこの朝鮮半島の分断国家に集めさせるに十分だった。
経済成長を果たし、民主化が実現される中で、韓国の人々は豊かになり、自由になった。そして彼等は、かつては「夢」にしか過ぎなかったこの二つの成功が、更に続く事を期待した。結果、民主化達成直後の韓国の大統領もまた、この二つの主要な成功を体現し、その更なる発展の「夢」を語る人物が選ばれる事になった。1987年の民主化以後に大統領に就任したのは、盧泰愚、金泳三、金大中であり、このうち、盧泰愚が体現したのは1980年代における韓国の目覚ましい経済発展であり、彼の就任一年目に開催されたソウル五輪は、成長した韓国の姿を文字通り世界に示す事となった。金泳三と金大中は、韓国の民主化過程における英雄であり、彼等の大統領就任は、この間の政権中枢の権力交代とも相まって、この国の民主化の成功を強く印象付ける事となった。
大きな「夢」の終焉による、大統領の権威の失墜が続く
とはいえ、この様な状況は長くは続かなかった。何故なら、時代の変化と世代交代が、韓国の指導者をして更なる「夢」を語る事を次第に困難にさせたからである。
金大中の後を受けて大統領に就任した盧武鉉は、決してその民主化過程において突出した役割を果たした人物ではなかったが、それでも、その国民のレベルにまで目線を落とした語り口と併せて、人々に「新たな民主主義の指導者」としての印象を与え、更なる「夢」を見させることに、一度は成功した。しかしながら、アジア通貨危機の余波が続く中、金大中に引き続いて彼が行った「新自由主義的」な経済改革は、彼をして大きな矛盾へと直面させる。何故なら、市場メカニズムを積極的に導入し、世界経済のグローバル化に対応しようとする政策は、必然的に「経済成長」と同時に、社会における格差の拡大をもたらす事になったからである。平等な社会の実現を目指すはずの「進歩派」政権の下で、寧ろ大きく格差が拡大する。この一見矛盾した状況は結果として、盧武鉉政権の「進歩派」の「進歩派」たる所以に疑念を抱かせる事になり、その支持基盤を大きく切り崩していく事になった。
これを受け今度は、経済発展を重視する「保守派」に順番が回って来た。2007年の大統領選挙で大勝を収めた李明博は、1970年代から80年代にかけて現代建設を大きな成功へと導いた「伝説の経営者」として知られた人物であった。その後政界に転じた李明博は、ソウル市長在任時には、市内中心部を流れる清渓川の再開発事業や都市交通網の整備等を積極的に行い、「伝説の経営者」としての評価を市民に再確認させる事に成功した。
李明博は大統領選挙においても、この「伝説の経営者」としての実績を上手く利用した。その典型的な表れが、彼が大統領選挙に臨む際の自らの看板政策として掲げた「韓半島大運河構想」である。首都ソウルを流れる漢江と、韓国第二の都市であり最大の港湾都市である釜山を流れる洛東江の間に運河を掘り、両河川を一つの水路として連結させるという京釜運河計画を発端として作られたこの構想は、大統領選挙までに、南北の境界近くに位置する臨津江や、平壌を流れる大同江をも連結し、最終的には朝鮮半島南端の釜山から中国国境沿いに位置する新義州までを連結する壮大な規模へと発展した。
朝鮮半島の東と西に存在する海岸線に平行な運河を掘る。この明らかに経済的合理性を欠いた奇妙な構想が一定の支持を集めた背景には、この計画が大規模な公共投資を生むものであり、それにより韓国が高度経済成長へと復帰できるであろうという、「夢」を人々に見させるものであったからである。仮に経済が大きく拡大するならば、格差が拡大したとしても人々の生活は大きく向上する事になる。
とはいえそれは現実から乖離した「夢」にしか過ぎなかった。大統領就任後の李明博は、この壮大な構想を早々に封印する一方で、リーマンショック後の韓国経済を巧みに導いた。それは「伝説の経営者」としての彼の手腕の一端を示すものではあったものの、しかしその経済成長は、並行して続いた格差の拡大を補うには十分ではなかった。こうして、李明博もその政権の末期には大きく支持を失い、政権は漂流を余儀なくされた。
重要なのは、こうして2000年代に入り、高度経済成長期を終え、民主化も達成され、既に四半世紀以上を経ようとした頃には、政治指導者がかつての様に、経済成長と民主化の成功を基盤にして、自らの「夢」を語る事が困難になった事である。だからこそ、盧武鉉と李明博は共に、当初は大きな支持を集めながら、その政権末期には深刻なレイムダック現象に直面する事となる。
そしてこの様な、盧武鉉と李明博の直面した困難に、更に明確な形で直面したのが朴槿惠だった。盧武鉉や李明博は貧しい家庭に生まれ、自らの手腕一つで大統領にまでのし上がった人物だった。他方、元大統領の長女として生まれた朴槿惠には、1998年に政界入りするまでの間に、特段の個人的業績は存在しなかった。政界に入った後も朴槿惠の役割は、主として「元大統領の長女」としての圧倒的知名度を生かして、保守政党の「看板」としての役割を担う、というものであった。つまり彼女には、盧武鉉が限定的ながらも弁護士として民主化運動で挙げた実績も、李明博が担った成功した経営者としてのイメージも、何れもなかった事になる。
朴槿惠は、言うなれば亡父朴正熙の「シャドー」であり、彼により成し遂げられた経済成長の成功と強いリーダーシップのイメージを背景に大統領に就任した。とはいえそれは、彼女がその実現の為の具体的な施策を有している事を意味しなかった。朴槿惠の経済政策の看板として用いられたのは「創造経済」というスローガンであったが、朴槿惠は最後まで、それが具体的に何であるかを説明することさえできなかった。
加えて朴槿惠にとって、亡父のイメージは諸刃の剣であった。何故ならそれはかつての経済的成功とそれをもたらした強いリーダーシップという肯定的な面を有する一方で、人々の意思を顧みない、冷酷で非民主主義的なリーダーという否定的な面をも有していたからである。1970年代、つまり朴正熙政権期からの古い友人である崔順実と自らを巡るスキャンダルは、この様な亡父の政権下の否定的なイメージを呼び起こすに十分なものであり、だからこそその発覚は、瞬く間に朴槿惠を政治的失脚へと追い込んだ。こうして事態は単なるレイムダック化を超え、朴槿惠の弾劾へと進むことになる。
「伝説の経営者」であった李明博は韓国経済の経済政策では、ある程度の経済成長は実現できても格差の拡大を止める事はできず、亡父のイメージを引き継いだ、一見強力な朴槿惠のリーダーシップは具体的な政策へと結びつかず、結果、格差の拡大は更に進行した。重要なのは、韓国社会がこの状況に対する解決策を必要としていたことであり、新たな大統領にはその答えが要求された。
文在寅政権「所得主導成長」政策の挫折と一層進む格差の拡大
その結果、2017年、大統領選挙にて勝利する文在寅が打ち出したのは「所得主導成長」戦略であった。そこで主張されたのは、次のような事である。
従来の経済政策においては、経済成長を維持・拡大する為には、政府が積極的に公共事業等を行い、財政的支出を拡大する事が推奨されてきた。しかし今日、この様なケインジアン的な成長刺激策は既に効力を失いつつある事が指摘され、徒に政府の財政赤字だけが拡大する事になっている。財政赤字の拡大は、国際社会のその国の経済への不安を呼び起こすことになり、その結果、アジア通貨危機やリーマンショック時の様な状況が再現される可能性も存在する。
他方ケインジアン的な経済政策に代わって、1980年代以降行われる様になったのが新自由主義的な改革である。この改革ではマーケットメカニズムへの信頼を基盤に、その機能を阻害する要素を極力撤廃する規制緩和を行う事が推奨される。しかしこの政策の下では、経済成長の実現には一定の効果がある一方、経済的格差は必然的に大きく拡大する。その結果こそが今日の韓国の状況であり、人々の不満は限界に近づいている。
だからこそ、新しい政策が必要である。ここにおいて文在寅が採用したのが「所得主導成長」戦略であった。その理屈はこうだ。現在の経済的困難の根源にあるのは、賃金の上昇が労働生産性の上昇に劣後する事であり、結果として労働分配率が低下すると同時に、個人消費が低迷し、経済成長率の低下を招いている。であれば、政府が政策的に、この労働分配率を修正すれば良い。そしてここで文在寅政権が具体的な施策として選んだのが、最低賃金の引き上げであった。最低賃金を引き上げる事により労働分配率を高め、これにより、政府の財政負担を増やすことなく、貧困層の所得を増加させるのと同時に、個人消費を活発化させ、経済成長率を押し上げる事が出来る、というのである。
だが、この一見、魔法の杖の様に見える「所得主導成長」、より正確には「最低賃金の引き上げによる所得主導成長」戦略には、決定的な欠陥があった。すなわち、そこにおいては、何故に最低賃金の政策的引き上げが労働分配率の改善に繋がるのか、についての明確なロジックが存在しなかったからである。仮に労働分配率が変わらない状況で一人当たりの賃金だけを引き上げれば、結果として減るのは雇用になる。
文在寅政権が何故に最低賃金を引き上げれば、労働分配率が必然的に改善されると考えたのかはわからない。しかし、この政策は結果として雇用の減少を招き、文在寅政権下でもまた、格差は更に拡大する事になった。主要経済政策として位置付けた「所得主導成長」戦略が早々に失敗した後、文在寅政権はこれに代わる新たな施策を見出せていない。
そしてこの文章が書かれている2021年、韓国における経済的格差を巡る状況は更に大きな悪化を見せている。言うまでもなく、この様な状況をもたらしたのは新型コロナウイルス感染症の蔓延である。コロナ禍と、それによる経済活動の停滞によって、その一層の悪化を防ぐ為の積極的な財政出動と金融緩和が行われ、結果、通貨供給量は大幅に増加した。経済活動が低迷する中、過剰流動性は投資へと回り、世界各国では深刻な経済不況の中、株式が大きく上昇する、という奇妙な状況がもたらされた。
同じ状況は、韓国においては、株式以上に、不動産価格の上昇へと繋がった。かつての高度成長期に確立した「不動産神話」が、日本とは異なり依然広く信じられている韓国では、不動産、とりわけソウル首都圏のマンション価格は将来的に必ず上昇するという強い期待が存在し、マネーは不動産投機へと殺到した。結果、ソウル首都圏では不動産価格が大きく上昇し、ただでさえ新型コロナ禍の深刻な不況に苦しむ人々にとって更なる大きな負担となって現れた。
そして今、コロナ禍は依然、終わりを見せず、不確実な状況が依然続いている。状況が大きく変わらなければ、冒頭で述べた2022年3月の大統領選挙は、その大きな不安と深刻な格差拡大の中、行われる事になる。人々は状況への解決策を欲しており、候補者達はこれに対する答え、そして何よりも韓国の将来に対する大きな「夢」を示す事を求められる。
大きな「夢」としてのベーシックインカム
だからこそ今、韓国において「ベーシックインカム」(韓国語では漢語で「基本所得」と呼ばれる)が大きな関心の的となっている。そしてそれは必ずしも現段階における来たるべき選挙の最有力者の一人である李在明がこれを唱えているからだけではない。重要なのは寧ろ、今日の韓国においては、この「ベーシックインカム」以外に、状況に対する具体的な解決策が、誰にも見つからない状況が生まれている事である。実際、現在の韓国最大の野党であり、保守政党の「国民の力」党の綱領においても、「基本所得」という語が入っている。勿論、そこにおける意図は、進歩派のそれとは異なるものの、我々はこの様な事実からも、韓国においてこの構想が、単なる抽象的な理論上の存在としてではなく、現実的な政策目標の一つとして捉えられているのを知る事ができる。
そうして考えると、今の韓国において何故に「ベーシックインカム」が注目されているか、がわかる。つまりそれは、今の韓国の人々が見る事ができる数少ない「夢」であり、だからこそこの大統領選挙でも「ベーシックインカム」は大きな注目を浴びる事となっている訳である。
だとすれば「ベーシックインカム」は、本書においても「韓国においてベーシックインカムの議論の広がりに決定的な役割を果たした」とされ、現段階における与党「共に民主党」の最有力候補である李在明をして、彼を大統領選挙での勝利へと導いていくことになるのか。それともより多くの候補者にこの構想が受け入れられ、選挙戦では、異なる意図からの異なる「ベーシックインカム」について、激しい議論が戦わされるのか。そして、李在明をはじめとした、「ベーシックインカム」の主張者が大統領に当選したならば、その理念は実際の政策にどの様に反映され、どの様な結果をもたらすことになるのだろうか。それとも全く正反対に大統領選挙の中で、「夢」は早々に叩き潰されてしまうのか。そして何よりも、この構想を通じて韓国の人々は再び大きな「夢」を取り戻し、希望に満ちた社会を回復する事ができるのか。
だとすれば、我々は近いうちに、隣国において大きな、そして大胆な実験を見る事になるのかもしれない。13人目の大統領を選び出す選挙戦とその後の政策的展開は、韓国に先行して、お仕着せながらも民主化し、高度成長を遂げたものの30年以上の低成長と格差の拡大が社会問題化している我が国の将来、そして我々自身の「夢」にとっても参考になりそうだ。
(2021年7月8日入稿、8月24日改稿)
|