瀧澤弘和氏書評〕〔内容紹介・目次

中国人の経済学者,というと誰の名前がまず思い浮かぶだろうか。中国経済に関してある程度の関心を抱いている人であれば,改革派の重鎮である呉敬璉氏,あるいは世界銀行のチーフエコノミストであった林毅夫氏(北京大学教授)らの名前が挙がるかもしれない。中国政治に関心があれば,習近平政権のブレーンとして知られる胡鞍鋼氏(清華大学教授)を思い浮かべる人もいるだろう。しかし,一般的には経済問題や経済学にそれなりの関心があったとしても,あるいは中国情勢に関心があったとしても,「特に誰の名前も浮かばない」「ほとんど知らない」と答える人が圧倒的多数ではないだろうか。しかし,言うまでもないことだが,日本で知られていない=重要ではない,ということではない。改革開放以降のこれまでの中国経済の歩みを理解する上で,欠かせない重要な役割を果たしてきた経済学者たちは多い。本書の著者である周其仁氏もその一人である。

原書書影本書は,2017 年に北京大学出版社から出版された周其仁氏の論文集,『産権与中国改革』の全訳である。この論文集に先立ち,2002 年に社会科学文献出版社から『産権与制度変遷(所有権と制度変遷)』が,そして2004 年に北京大学出版社からその改訂版が出版されている。本書はこの改訂版にいくつかの論文を追加したり,削除したりしたものである。

まず,著者の周其仁氏について簡単に紹介しておこう。周氏は1950 年に上海に生まれた。中学卒業後に文化大革命が始まったため,黒龍江省の農村に下放され,過酷な農作業に従事した経験を持つ。改革開放後,中国人民大学経済学部に入学,「農村改革の父」とたたえられた杜潤生教授の指導を受けている。卒業後は中国社会科学院農業発展研究所,国務院農村発展研究センターなどの政府系シンクタンクで農業・農村問題を中心とした政策研究を行ってきた。その後英オックスフォード大,米シカゴ大などでの在外研究を経て,米カリフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得している。その後は北京大学国家発展研究院(旧北京大学中国経済研究センター)での研究及び教育に携わり,2008 年からは同研究所の所長も務めた。

周氏の研究範囲は,本書を読めばわかるように,農業・農村改革や企業公有制改革に関する政策提言,経済制度に関する理論研究,さらに独占禁止規制および産業政策についての実証研究など,非常に多岐にわたっている。また,本書でも強調されているように,周氏は一貫して単なる机上の学問としてではなく,フィールドワークなどを通じた現実世界との対話を通じて真理を追究する実践的な学問として経済学に取り組んできた。そして,さまざまな経済問題の解決に向けた政策提言を積極的に行い,中国の経済改革の方向性に大きな影響を与えてきた。その見識を買われて,2010 年には中国人民銀行の金融政策を決定する貨幣政策委員会の委員にも任命されている。なお,金融政策に関する彼の基本的なスタンスについては,本書の第12 章「貨幣制度と経済成長」を参照されたい。

周氏はその豊かな教養を活かした優れた文筆家としても知られ,学術的な論文・著作のほかにも,新聞や雑誌などのメディアを舞台に時事問題に関するエッセイなどを積極的に執筆し,多くの読者から支持を得ている。2000 年代には,国有企業の市場化改革の是非をめぐって,左派の立場から改革に異を唱えた郎咸平氏(香港中文大学教授)との間に激しい論争を繰り広げたことでも知られている。しかし残念ながら,日本ではこれまでに,関志雄『中国経済を動かす経済学者たち』(東洋経済新報社)および𠮷岡桂子『問答有用』(岩波書店)でその活動の一部が紹介された他には,周氏の主たる著作がまとまった形で紹介されることはなかった。従って,今回このような形で,周氏がこれまで発表してきた中国の経済改革に関する主要な論文をまとめた著作が日本の読者の目にも触れることになったことは,まことに喜ばしいことである。

さて,周氏の実質的な主著にあたる本書の特徴は,以下のようにまとめられる。

第一に,本書は周氏の改革派の経済学者としての主張が全面的に展開された,「市場化改革のマニフェスト」として読むことができる。

その側面がもっとも端的に表れているのが,本書の第11 章「病気になったら,誰が面倒を見てくれるのか?」だろう。この章で周氏は,現代中国社会が抱える深刻な医療問題――「医者に診てもらうのが難しい上,医療費が高い(看病難,看病貴)」――という現象に注目し,その原因を医療衛生に市場原理を導入したことそのものではなく,むしろその導入が不徹底であるために生じていることを痛烈に批判している。周氏は,医療衛生サービスの供給全般が国有・公有の医療機関に独占されており,自由な参入が認められていないことこそ「医者に診てもらうのが難しい上,医療費が高い」という中国ではありふれた,しかし明らかに経済的な合理性を欠いた現象の根本的な原因なのだという。彼は,この状況を解決するには,医療衛生サービスの分野における「行政独占」を打破し,サービスへのアクセスとその価格の形成において市場メカニズムが決定的な役割を果たす必要があると主張する。

「行政独占」を打破することが中国の経済改革にとって最も重要な課題だ,という主張は,第10 章「競争,独占と規制『反独占』政策の背景報告」においても見られる。この章は,電気通信サービスや空輸サービスなど,これまで国有企業が独占していたインフラ事業の分野に競争メカニズムを導入しようとする一連の改革について論じたものだ。これらの改革は,米国のレーガン政権,英国のサッチャー政権の下で行われた規制緩和の動きを踏まえ,1990 年代に中国でも実施に移された。

しかし,依然として国有企業が支配的な地位を占める一方で,民間企業の参入には高い障壁が設けられ,極めて限定的な市場競争しか実現していない現状に,周氏は厳しい目を向ける。そして,政府指導者が率先して料金の引き下げとサービスの改善を追求し,市場化改革を深める必要があることを力強く説くのである。

本書の第二の特徴として,本書に収められた各論考に,市場改革があくまでも中国の現実を踏まえたものでなければならない,という周氏の価値観が色濃く反映されていることが挙げられる。

例えば,農村における集団所有地の財産権改革を詳細に論じた第3 章「農村改革:経済システムの変遷を回顧する」における次のような一節は,そのような「地に足の着いた改革」を志向する周氏の姿勢を端的に表したものだといえるだろう。

中国農村における新しい財産権を保護するメカニズムは,西欧の近代化における,「個人=市民が作り出す公共領域」に基づいて政府を牽制し,バランスを取るというものとは異なる。むしろ,「家族=村落コミュニティ=地方政府」の連合体と,中央政府との大量な,公式/非公式の交渉を通して国家と社会の関係を変え,それによって,初期に定義された財産権契約の保護と執行のための環境を提供する,というものである(本書78 ページ)。

同章で繰り返し強調されるのは,農村改革の過程において,農民たちがいわゆる「部分的な退出権(農民たちが,その人的資源を,集団所有制経済以外の部分に投入すること)」を行使できるようになったことの重要性である。改革開放期における生産責任制(包産到戸)の導入は,決して強権的な政府の上意下達によって実現したものではない。重要なのは,農民たちが,それまでの人民公社による集団農業からの部分的な退出権を自発的に行使した結果,それまで国家が独占的に管理していた集団的土地所有制のコストが増大し,その結果政府が,農業に関する制度改革の実施を余儀なくされたことであった。すなわち,農村における農民の自主権の拡大は,あくまでも農民の自主的な行動を通じてボトムアップ的に行われ,最終的に政府がそれを追認することでより制度化され,確固たるものとなっていったのである。このような,各種の利害関係者が,インタラクションを通じて改革の歩みを確固たるものにしていった,という中国の経験は,国有企業改革や上述の医療サービス改革など,これからの中国が取り組むべき改革の行方を考える上でも,大きな示唆を与えるものだといえるだろう。

本書の第三の特徴は,周氏がロナルド・コースらによって切り開かれた制度派経済学を自家薬籠中のものとし,中国の改革の実践の理論的支柱としてその成果を縦横に用いている点にある。特に,現代の企業活動にとって人的資本がどのような役割を果たし,どのような位置づけがなされているか,という観点から中国における公有企業制の本質をとらえ,歴史的に位置づけている点は,制度派経済学に対する本書のオリジナルな貢献として,高く評価されるべき点であろう。

本書の第6 章「市場における企業」で周氏は,コースの企業理論に依拠しつつ,法人企業の本質を「人的資本に関する契約と非人的資本に関する契約が組み合わさった特珠な市場契約」だと喝破している。このため,法人契約は,本質的に経済学でいうところの不完備契約,すなわち権利と義務の条件があらかじめ完全には確定せず,生産要素の所有者が,契約とその履行の間に条項を追加する権利を持つような契約とならざるを得ない。なぜなら,人的資本は物的資本とは異なり,その所有主体である「個人」と分離させることができないため,それを利用するためには,個人をどう動機付けるか,という問題がどうしてもつきまとうからだ。

この点に関し,第2 章「人的資本の財産権とその特徴」で周氏は,ある資本家が土地を市場で購入したとして,その土地は新しい所有者のものでも同じ面積と土壌の肥沃度を維持できるが,それに対して人的資本の場合,その持ち主=被雇用者は,新しい所有者=企業家の下で以前よりも怠惰で愚かになり,さらには企業家に全く従わなくなってしまう可能性さえあると指摘する。すなわち,人的資本に対する財産権がもつ本質的な不完全さのために,企業が持つ経済的な価値は状況次第では急落してしまいかねないのだ。周氏によれば,人的資本の所有者の権利が重視されない体制の下では,人びとは決して力を尽くすことはできない。従って,そのような体制には変革が必要になる。このような観点から彼は,中国における企業改革が,これからも停滞してはならないことを説くのである。

さらに本書の最後を飾る第13 章「体制コストと中国経済」で周氏は,これまでの40 年間にわたる中国の経済改革の成功の主因を,その体制コストの継続的な低下に求めている。彼によれば,安い労働力を利用して労働集約的な産業を発展させるという当たり前のような現象でさえ,体制コストの低下がなければ実現しなかった。このことを踏まえれば,体制コストの持続的な低下を目指すことこそが,今後の中国が採るべき改革の方向性だ,という周氏の主張は,改めて傾聴に値するものだといえよう。周氏自身の言葉を借りれば,「生産コストが潜在的に低かったとしても,そのことが決して自動的に比較優位を生み出すわけではない。重要なのは,生産活動を妨げる体制上の制約を取り除くことができるかどうか」なのである。この文章が,中国の経済改革が曲がり角に差しかかった2017 年に発表されたことを考えれば,この指摘の重みは明らかだろう。

さて,本書の出版からすでに6 年の月日が流れている。本書の翻訳プロジェクトが本格的に始動してからもほぼ4 年になり,その間に世界経済は米中対立,コロナ禍,ロシアのウクライナ侵攻という,いずれも本書が理想とする,自由で開かれた経済活動にとって大きな逆風となるような事態に直面してきた。この間,中国経済を取り巻く環境も大きく変化しつつある。本書では直接の分析の対象となっていないが,アリババやテンセントといった大手プラットフォーム企業が台頭してその活動を拡大するとともに,近年にはそのあまりに旺盛な勢力拡大に対する警戒もあってか,「共同富裕」を重視するという政府の方針のもと,その活動への規制が強化されるという動きも見られる。このような状況を受け,特に海外では,これからの中国における改革の進展について悲観的な見方をする研究者も多くなっている。しかしそのような将来が見通しにくい時期だからこそ,本書に凝縮された,1980 年代以降の中国における市場改革の理論的支柱となってきた経済学者による,他国からの借り物ではない良質な思考を改めてたどることには大きな意味があるのだと,筆者は考えている。

周氏の書く文章は中国国内でも格調の高いものとして知られ,古今東西の名著からの引用や,中国国外ではほとんど知られていないようなエピソードなどにもしばしば言及されているため,監訳者としての訳文の推敲は困難を極めた。仕事が遅れがちな筆者を温かく見守り,著者と翻訳者との間の橋渡しやていねいな訳注の作成など,出版に向けての尽力を惜しまれなかった白桃書房の寺島淳一氏にあらためて感謝を申し上げたい。

2023 年6 月 梶谷懐(神戸大学大学院経済学研究科)

著・訳・監訳 周 其仁 著/劉 春發 訳
/梶谷 懐 監訳
出版年月日 2023/11/6
ISBN 9784561961420
判型・ページ数 A5・400ページ
定価 本体5636円+税