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特定企業を取り上げて、その単独事例を調査・研究の対象にする。これは経営事例の調査・研究でもっとも数多く行われる作業であろう。

実務の世界では、単独事例研究は種々なかたちで行われる。将来に向かっての戦略シナリオを作成するために自社のそれまでの経緯を調べる。気になる競合他社、重要な取引先の動向、あるいはこれから進出しようとする領域での急成長会社やトップ企業を調べるなどである。

研究の世界でも単独事例研究を種々なかたちで取り上げる。研究者や大学院生は、それぞれの業界の代表的企業や急成長企業、あるいは他に例をみないようなユニークな企業を研究することにより、既存理論の検証や新理論開発の手がかりにする。学部学生でも単独事例研究に関心を持つものが多い。就職先企業などについて、より深く知るために卒業論文のテーマに選ぶなどはその例である。

しかし、どのようなかたちであれ、単独事例研究をたんに実例研究として行うと、そこから得られるものは少ない。たんに特定事例の実態を知るだけで終わってしまうからである。その情報は特定の時・場所に限られた特殊事情にとどまるお話に過ぎず、他に応用していけるような経営知識を取り出せないかもしれない。単独事例研究から他にも応用できる経営知識を得るには、単独事例を理論事例として研究する必要がある。これは研究者だけでなく、実務家にとっても同じである。

理論事例研究では何のためにその事例を研究するのか、つまりなぜその企業を研究するのかの焦点や課題が明確に定まっている。多くの場合、それらは急成長、持続成長、停滞、衰退そして消滅といった企業盛衰ダイナミクスの局面であろう。理論事例研究ではこれらの結果がなぜ生じたのかを説明しようとする。そのさい原因になりそうな諸条件を事例資料の中に見つけ出し、それらを理論的に解釈しながら、因果関係を探っていくのである。

物語分析は、このように単独事例を理論事例として研究するさいの最新の基本手法である。盛衰ダイナミクスの特定の結果がなぜ生じたか。物語分析は結果に先立つ過去の出来事を物語として再構成することによって説明する。物語とは結果を生み出す出来事の連鎖である。この連鎖を解明するために、物語分析は定性分析の手法を多用する。また統計分析におけるような変数ではなく、出来事に着目することによって、時系列的な変数数値データが利用できないといった、単独事例研究でしばしば生じる不完備データという情報障害を克服しようとしている。本書では、この物語の基本分析と方法論を概説している。

経営世界で多くの人の関心を集める事象の多くは、特定企業の急成長、不況をものともせず信じられないほど長期にわたる持続成長、衰退企業の不死鳥のごとき復活、あるいは巨大企業の消滅といった単独事例の盛衰ダイナミクスとして現れる。その動態過程を、資料・データが完備していない状況で研究しようとするさい、物語分析は現在のところ利用できる唯一の方法と言ってもよいだろう。単独事例研究に取りかかる前に本書を一読することで、事例分析の焦点が定まり作業が効率化されることを期待している。

物語分析は社会科学、人文科学でこれまで開発されてきた概念・技法を学際的に総合化している。しかし、本書では研究者だけでなく、実務家、学生も読者として想定しているので、読むにさいして必要な予備知識は何も想定していない。従来の経営学ではなじみの薄い概念も多く登場するが、それらの理解を助けるため本書では事例を概念の例証として使っている。盛衰ダイナミクスがもっとも激しく現れる業界であるだけでなく、多くの読者がそれらの企業を日常生活などを通じてよく知っているので、事例の背景知識の説明に多くの紙数を使わなくて済むと考えたからである。

本書は著者の『リサーチ・デザイン:経営知識創造の基本技術』(白桃書房、2006年)、『経営事例の質的比較分析:スモールデータで因果を探る』(白桃書房、2015年)の姉妹書である。これら3書で著者の考える事例研究方法論はほぼ尽くされている。最後に、本書を姉妹書としてさらに付け加えることにかんして、厳しい出版事情にもかかわらず、快諾していただいた白桃書房社長、大矢栄一郎氏に感謝申し上げたい。

2016年7月14日 田村正紀

著者 田村 正紀 著
出版年月日 2016/10/06
ISBN 9784561266853
判型・ページ数 A5・200ページ
定価 本体2,600円+税