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本書は、Dennis Tourish, Management Studies in Crisis: Fraud, Deception and Meaningless Research, Cambridge University Press, 2019 の全訳である。

本書には、経営学という学問領域が今まさに直面している危機の諸相が、研究の質とインテグリティ(倫理的な一貫性や誠実性。訳語解説参照)、大学における研究・教育体制、学問と実社会との関係など多岐にわたる問題との関連で余すところなく描き出されている。ただし、本書は単なる「批判のための批判」などではない。著者のトゥーリッシュ教授は、経営学の再生の可能性を見すえた上で、さまざまな改善策を本書の各所で提案しているのである(そのような改善提案が盛り込まれた、本書の第6章と同じタイトルを持つ論文「経営研究におけるナンセンスの勝利」は、2020年にAcademy of Management Learning and Educationの最優秀論文に選出されている)。

本書で主な分析と考察の対象になっているのは、欧米各国や豪州などにおける経営研究に見られる問題点とビジネススクールをはじめとする高等教育機関が組織として抱えている深刻な問題である。しかし、同様の問題は程度の差こそあれ日本を含む他の多くの国々でも見出されるものである。また本書でも度々指摘されているように、それらの問題は、経営学に限られたものではなく、社会科学系の学問領域全般に及んでいる。さらに、経営学の場合には「実学」としての側面がある。したがって、もしこの研究分野がその創始の頃から宿痾とも言える深刻な問題を抱えているのだとしたら、組織経営の実務に携わる人々も決して無関心ではいられないだろう。

こうしてみると、この本には、我々日本の読者にとっても、経営学以外の学問を専攻する研究者にも、あるいは経営学の成果を実務に生かすことを考えている人々にとっても、とうてい他人事などとは思えないような重要な問題提起が含まれていると考えることができる。そのような観点から見た場合、この本についてはさまざまな読み方や「使い方」ができるように思われる。以下では、その中でも次の3つを中心にして解説していくことにする。

・破壊的な「告発」の書として
・第一級の組織エスノグラフィーとして
・他山の石として

破壊的な「告発」の書として

経営学の惨状 イアニス・ガブリエル教授は推薦の辞で本書をdevastating、つまり破壊的で衝撃的と評している。実際、各章のタイトルからもある程度想像できるように、経営学の現状に対する著者の批判はきわめて痛烈であり、また、その語り口は、時にかなり辛辣かつ激越なものになっている。このように本書には、経営学を苦境に追い込んだ各種の要因に関する告発の書としての一面がある。

たとえば、経営学は創始の段階から深刻な欠陥を抱えた学問領域であったが(第1章)、近年はそれに加えてさまざまなタイプの研究不正行為が横行しており(第4章)、それにともなって国際的な一流ジャーナルの場合も含めて論文撤回の案件が頻発している(第5章)。一方で、一見優れた学術的成果であると思えるような、エレガントで抽象的な概念用語を駆使して書かれた論文は、実際には悪文だらけの意味不明瞭なナンセンスでしかない(第6章)。それとは対照的に、現場の実務家にも「腹落ち」がするようにも思える気の利いた概念や印象的なエピソードが散りばめられたリーダーシップ研究の多くは、実際には流行り廃りが激しい「キャッチフレーズ勝負」的な言葉遊びに過ぎない。また、主な調査法として採用されてきたアンケート(1)には深刻な欠陥がある場合が少なくない(第7章)。さらに、象牙の塔の範囲を越えて実務の世界との接続を目指す「根拠にもとづく経営(エビエンスベースト・マネジメント)」を理念として掲げる研究の中には、その表向きの意図とは裏腹に利益相反の疑いが濃厚な例も見受けられる。また、その運動を支えているはずの肝心のエビデンス・ベース(根拠)はそれ自体がかなり脆弱なものでしかない(第8章)。

危機の背景 トゥーリッシュ教授は、以上のように、今日の経営学が陥っている「惨状」とも言える危機的状況の背景にある要因に対しても鋭い分析のメスを入れている。第2章では、大学やビジネススクールが、世界ランキングの維持や上昇に執着するあまりに管理主義的な性格を強めていき、また学問の自由を圧殺してきた経緯について論じている。そのような圧力が強まることによって、研究者はトップジャーナルへの論文掲載それ自体を目的にするようになり、また、肝心の論文も、編集委員や査読者の意向を過剰に忖度した無内容で気の抜けたものになってきたのである。第3章は、大学の内部文書を含む各種の調査資料を駆使して、そのような偏狭な業績評価を中心とする管理主義的な大学運営が教職員に対して過酷な勤務と生活を強いていることを明らかにする。そのようないわば「ブラック企業」にも似た労働環境は、多くの教職員に強度のストレスをもたらし、倦怠感や冷笑的態度、ひいては燃え尽き症候群を頻発させている。また極度のプレッシャーで疲れ果て精神的に追いつめられた研究者の自殺という事態まで引き起こしている。

以上の要約からも明らかなように、経営学が今日迎えている深刻な危機は、経営学を専攻分野とする研究者たち自身が招いたものという面がある一方で、その多くは、大学および学界の組織体制に起因するものである。また、それら諸機関の高圧的な組織管理の背景には、近視眼的であり短期的な業績評価に傾斜する、高等教育と学術研究に関する国家政策があることは言うまでもない。

トゥーリッシュ教授は、これらの問題の根底にある要因や関係者による心ない行為と発言の数々を白日の下にさらした上で舌鋒鋭い批判を加えている。もっとも一方で、その批判と告発はしばしばウィットに富む比喩を交えてなされており、また古典的文献(たとえば『カンディード』や『種の起源』)から映画作品(『ターミネーター』『恋はデジャ・ブ』)あるいは人気TV番組(『アイ・ラブ・ルーシー』『スタートレック』)などからの卓抜な引用が織り込まれている。それが、かなり大部なこの本を読み物としても楽しめるものにしている。また、本書の随所、とりわけ第9章と第10章に盛り込まれた改善提案は、日本を含む各国において経営学に関わる人々が持ち得る将来への希望と今後この学問領域が進むべき道筋について重要な手がかりを与えてくれている。

第一級の組織エスノグラフィーとして

当事者による現状分析 右で見たように、本書には批判と告発の書としての性格があるが、その告発には「内部告発」としての一面がある。というのも、トゥーリッシュ教授は20年以上にわたって豪州および英国のビジネススクールで組織論やリーダーシップ論の研究と教育に従事してきた当事者の一人に他ならないからである。トゥーリッシュ教授は、日本語版への序で「そもそもこのような本を書かなければならなかったという点については、それをとても残念なことだとも思っています」と述べている。これはまさに、当事者ないし内部者としての感慨でありまた反省の弁でもあるだろう。実際、トゥーリッシュ教授はたとえば序章や第2章では自分自身が本書で扱っているような「過ち(faults)」を何度か繰り返してしまったことを率直に認めている。その中には、論文を難解な文章で書いてしまったり、ジャーナルのインパクト・ファクターの上昇を目指す編集委員の要請にしたがって、特に必要でもないのに過去にそのジャーナルに掲載された論文を引用したことなどが含まれている。

このように、本書には、当事者としての個人的な体験を踏まえた知見や解釈が随所に織り込まれている。もっとも一方でこの本は、そのような現場体験あるいは主観的な印象や感情に対して一歩距離を置いて、それらをより広い文脈に置いてとらえ直すことによってこそ得られる透徹した分析が含まれている。このような、当事者と局外者の2つの視点をあわせもつ第3の視点(2)に立って書かれた本書には、第一級の「組織エスノグラフィー」としての性格がある。

組織エスノグラフィーというのは、人類学的な現地調査の手法を企業組織や学校あるいは病院などの近代的な組織に適用することによって「深く調査対象に入り込み、参加者として観察することによって内部者の見解を解明するためのフィールドワークの報告書」(3)のことである。トゥーリッシュ教授は、大学組織や学界組織を対象とするフィールドワークをおこなう上で、自身の内部者としての体験や観察を効果的に生かしていく一方で、本書の執筆にあたって実に多様な調査手法を採用している。

たとえば、第5章では、いったんジャーナルに掲載されたものの研究不正によって撤回された論文をめぐる事情に関して、編集委員や撤回された論文の共著者だけでなく、研究不正に手を染めることによって名声と職をともに失うことになった著者に対してインタビューをおこなった結果について報告する。また同章で解説されている資料の中には、独自に作成した商学・経営学系の撤回事例のデータベースを用いた分析の結果も含まれている。同じように、第4章では、経営学以外の学術領域も含めて研究不正行為の実態に関する膨大な数の先行研究から、研究不正行為の驚くほどの広がりとその多様な「手口」の詳細を明らかにする。このように各種の手法を縦横に駆使しておこなわれるトゥーリッシュ教授の分析は、経営学の現状に対してさまざまな角度から光をあて、その危機の諸相を立体的に浮かびあがらせている。そして、それは、組織エスノグラフィーとしての本書における記述に深さと広さそして「分厚さ」(4)を与えることになる。

批判理論の批判理論的分析 ここで詳しい解説は省略するが、学術研究のあり方に関する内部者(インサイダー)による批判的検討としては、ともに米国の社会学者であったチャールズ・ライト・ミルズのThe Sociological Imagination(邦訳『社会学的想像力』)とアルヴィン・グルドナーによるThe Coming Crisis of Western Sociology(邦訳『社会学の再生を求めて』)が良く知られている。本書はそのような知識社会学的な批判的分析の経営学版とも言える。

右のミルズとグルドナーの2点の著作は、そのどちらにも「社会学の社会学」、つまり社会学という学問それ自体に対して社会学的手法を適用して批判的な分析を加えた論考としての性格がある。同じように、本書には「批判理論の批判理論的分析」といった趣がある。批判的経営研究ないしCMS(Critical Management Studies)というのは、1980年代後半から主としてヨーロッパや豪州などの経営学者のあいだで採用されるようになってきた発想であり、米国を中心とする主流の経営学における理論的・思想的・方法論的な前提について問い直し、経営学研究の新たな地平を切り拓いたという点に顕著な特徴がある。また、本書にはその批判的経営研究の発想がふんだんに盛り込まれている。

もっとも、トゥーリッシュ教授は、そのCMSの近年の動向に対しては鋭い批判の矛先を向けている。本書の第6章や第10章では、最初は主流の経営学の体制への挑戦として始まったはずのCMSが、いつしか難解で無内容な哲学用語を散りばめた論文を量産する上で便利この上ない独自のテンプレートを作り上げてしまったことが指摘されている。つまり、CMSのある部分は、今や小さな砦の中に立て籠もるミニチュアサイズの反動的な体制と化してしまったのである(5)。またトゥーリッシュ教授は、第10章で、CMSには何ら代案を示さないで主流の批判に明け暮れる「批判のための批判」に終始する傾向があるという点を指摘し、それについて手厳しく批判している。

他山の石として

日本の経営学と「世界標準」 日本語版への序でトゥーリッシュ教授は、我々日本の読者に対して〈一流ジャーナルへの論文掲載に関する圧力が日本にも存在するのか〉という問いを投げかけている。残念ながら、その問いに対しては「イエス」と答えざるを得ない。

日本の科学政策や大学院拡充政策の明らかな失敗、またそれにともなう若手研究者の困窮や優秀な研究者の「頭脳流出」などに関する新聞や雑誌による報道などを通して今では広く知られているように、本書で指摘されているのと同じような状況は日本にも存在している。その意味でも、本訳書は他山の石として参照すべき多くの事実、とりわけ海外における学術研究と大学運営が抱える問題、そしてまた高等教育政策の「失敗事例」に関する情報が大量に含まれている。

訳者の知る限りでは、日本の経営学の現状に関して本書に匹敵するほどの本格的で体系的な分析は未だなされてはいない。重要な手がかりになる文献があるとしたら、それは、2019年に『組織科学』誌の特集号「質の高い研究論文とは?」に掲載された7本のエッセイであろう。また2021年には、それに新たに4本のエッセイを加えて、『質の高い研究論文の書き方―多様な論者の視点から見えてくる、自分の論文のかたち』が本訳書の版元でもある白桃書房から刊行されている。
それらのエッセイの著者たちが現在の経営学について抱いている問題認識のエッセンスは、『質の高い』の編者である青島矢一・一橋大学教授による「まえがき」に凝縮されている。少し長くなるが、その一部を以下に引用する。

……研究者には「国際的な学術コミュニティで認められる」研究をすることがますます求められている。特に近年は、大学や研究機関の国際競争力の向上が強く叫ばれるようになり、査読付きの国際雑誌への論文掲載が研究者のキャリア形成上不可欠となっている。一流の査読雑誌に掲載されるためには、国際的な学術コミュニティが認める基準に沿って研究の質の高さを示す必要があり、そこでは、研究に学術的貢献があることを説得するための作法も重要となる。日本の経営学が国際的な潮流と多少距離を置いて発展してきた経緯もあり、国際標準に合った研究論文を量産するには追加的な努力が必要となる。国際標準に合わせたこうした研究活動が、自分が面白いと思う研究や、真理に近づくと思うような研究、社会に役に立つと思う研究と必ずしも整合しないとき、研究者はどこに[どこを]向いて研究をすればよいのだろうか(6)

この文章で青島教授が指摘している「国際標準に合った研究論文を量産する」という要請は、特にキャリア形成の途上にある若手や中堅の研究者の場合に顕著なものになり、時に過酷な圧力としてその人々の生活と心身に影響を及ぼしている(7)

世界標準のグローバル性とローカル性 ここで注意しておかなければならないのは、青島教授の言う「国際標準」は、米国の学術界というきわめて狭い範囲でしか通用しない「内輪」の基準である場合が少なくないという点である。つまり、国際標準ないしいわゆる世界標準=グローバル・スタンダードとされるものは、実際には、適用可能な地域および何らかの意味がある議論として通用する社会的な範囲、という二重の意味においてきわめてローカルな基準に過ぎない場合も多いのである。

これについては、『質の高い』所収のエッセイで浅川和宏・慶應義塾大学教授が指摘している幾つかの点が参考になる。浅川教授はまず「経営研究の国際標準化が世界的に加速化」している点を明らかにする。その上で、それが「アメリカ流国際標準への過度の同質化」を生み出し、ひいては各国の研究者が自国の地域的な特殊性や文脈から目を背けて執筆した、独創性や新奇性に乏しい「凡庸な三流実証研究」としか言いようのない論文が世界の実証系ジャーナルに大量に投稿されているという事実について指摘している(8)

青島教授は先にあげた引用の中で、日本の経営学は国際的な動向と一定の距離を置いて発展してきたという点に言及しているが、浅川教授もまた日本の経営研究が(善かれ悪しかれ)国際標準化の「蚊帳の外」にあったために、今なお一定の独自性を維持していると指摘している(これは隣接科学である経済学や心理学などとは異なる点でもあるだろう)。さて、そのような独自性は果たしていつまで維持され得るものであろうか? 特に現実関連性(レリバンス)に裏づけられた独自性、つまり日本社会の実態を踏まえた上で実務にも有効な知見を提供してきたという意味での、日本の経営研究の独自性は今後どのような変化を遂げていくのであろうか?

青島教授は、先の引用で大学や研究機関に対して国際競争力の向上が要請されるようになったという点について述べている。その要請に関連して、日本でも国策レベルでもまた大学内部でも、大学ランキングやジャーナル・ランキングを重視する傾向がますます強くなっている。それが先に挙げた、研究者に対して加えられている「国際標準( ≓米国標準)」に準拠した論文の掲載に関する圧力の最も重要な背景要因でもある。

本書の第10章で解説されているように、この種の圧力と学術ジャーナルにおける査読プロセスとのあいだにはしばしば密接な関連がある。ジャーナルの編集委員や査読者は、自誌の「質」や独自性を維持するために、投稿された論文を特定のテンプレートに沿って書き上げることを要請する場合が多い。その結果として、投稿論文に当初は含まれていたはずの独創的なアイデアや「標準」から外れた内容は削ぎ落とされていくことが少なくない。また、ジャーナルのインパクト・ファクターを上げるために、著者は不必要な文献の引用を強要されることもある。

つまり、国際標準の要件を満たすためには、投稿者は時として自らの論文を「プロクルステスの寝台」(9)の上に差し出さなければならないのである。その結果として、たとえ首尾良く一流ジャーナルないしそれに準ずるレベルのジャーナルに掲載されたとしても、その論文は「血まみれで、形が崩れ、長たらしくて、参考文献で鬱血している」状態(本訳書376ページ)になってしまうかも知れない。そのような形で国際標準に安易に準拠してしまった場合には、日本の経営学がこれまで維持してきた独自性は雲散霧消してしまう可能性があるとさえ言えるだろう。

自他の失敗を糧にして 日本の場合、大学をはじめとする研究機関に対して政府やその関係機関から加えられ、また各大学の側がその教職員に対して加えてきた圧力の多くは、この国で1990年代初頭いらい矢継ぎ早に打ち出されてきた大学改革政策に付随して生じてきたものである。訳者が別のところで論じてきたように、それらの政策は「改革」という言葉とは裏腹に大学における研究と教育の現場に大きな混乱と疲弊をもたらしてきた。その意味では、これらの改革は、そのほとんどが明らかな失敗(失政)だったと言える(10)

そして、その失敗ないし失政の背後にある最も重要な原因の1つに「改革の自己目的化」があることは明らかであろう。つまり、内閣構成員や文科省をはじめとする政府関係者は、PDCA、エビデンスベースト、見える化という「三題噺」をお題目のように繰り返すだけで、実際には、改革の具体的な成果や成否それ自体について慎重に検証することもなく、次から次へと根拠薄弱な新規事業を立ち上げては「やっている感」を演出してきたのである。その改革の自己目的化のさらに背後には、いわゆる「官僚の無謬性神話」を典型とする、明らかな失敗に対してすら真摯に向きあおうとしない心の習癖と組織体制がある。

一方で、日本の教育政策や科学政策には舶来信仰が根強く残っている。つまり、海外の大学や学術界の教育と研究が果たしてきたとされる一見華々しい業績や成果に関する報告を鵜呑みにして、その「成功事例」の模倣を大学や現場の教職員に強要する、というやり方である。それは、改革関連の行政文書に盛り込まれているおびただしい数のカタカナ語やアルファベットの頭文字からも明らかであろう。これは取りも直さず、日本の政府、大学、研究者たちが海外における、いわば光り輝く「成功」事例の影の部分に目を向けようともせず、明らかな失敗事例から学ぶことにすら失敗してきたということを意味する。

日本の読者にとって本書が持つ最も重要な意義の1つは、まさしくその「失敗事例からの学習」という点にある。実際、本書は、国際標準とされてきた経営研究とそれを生み出してきた大学や政府機関がこれまでに経験してきた数々の失敗事例に関する詳細なケーススタディでもある。それらの失敗の事例は、まさに「他山の石」として日本における経営研究のあり方を変えていく上での教訓を提供している。また、それらの事例について検討することは、今まさに日本で生じつつある危機的な兆候(たとえば、大学ランキングや論文のインパクト・ファクターへの執着)を新たな角度から見直すことにもつながっていくだろう。

要するに本書は、他者の失敗からだけでなくみずからの失敗に対しても真摯に向き合い、そこから教訓を学んでいくための、またとない貴重な教材になっているのである。そして、そのような教訓からの学習は、日本の経営研究が、独自性を保ちながらも「ガラパゴス化」に陥ることなく、かつ内実が必ずしも定かではない「世界標準」の形式だけを模倣することを避けて、真の意味で国際的に通用するものになっていくためにはどうしても必要になるに違いない。

2022年3月11日
訳者:佐藤郁哉(同志社大学教授)

(編集注:本ページは、『経営学の危機』所収の訳者解説について、HTMLの特性を踏まえ体裁を整え掲載しています)

訳者解説注
1. ここでは「アンケート」を欠陥のある質問表調査という意味で使用している。これについては、佐藤郁哉(2021)『はじめての経営学 ビジネス・リサーチ』東洋経済新報社、pp.7-8 参照。
2. 佐藤郁哉(2002)『組織と経営について知るための実践フィールドワーク入門』有斐閣、pp.46-48。
3. 金井壽宏/佐藤郁哉/ギデオン・クンダ/ジョン・ヴァン-マーネン(2010)『組織エスノグラフィー』有斐閣、p.ii。
4. エスノグラフィーにおける分厚い記述については、クリフォード・ギアツ(吉田禎吾他訳)(1987)『文化の解釈学』岩波書店、第1章、佐藤郁哉(2006)『フィールドワーク 増訂版』新曜社、pp.110-116 等を参照。
5. グルドナーは「自省的な社会学」を提唱し、自省的(reflexive)であること、つまり社会学者が自分の社会的役割やみずからの議論と分析の前提を明確に認識することが社会学の危機を乗り越えていくためのきわめて重要なカギであるとした。CMS の場合も自省性(reflexivity)(「再帰性」という訳語があてられることもある)は最も重要なキーワードとして使われてきた。しかしながら、どうやらある種のCMSの文献ではその自省性は自らの研究や文章の書き方に対しては向けられていないようである。
6. 青島矢一(2021)「まえがき」青島矢一編『質の高い研究論文の書き方―多様な論者の視点から見えてくる、自分の論文のかたち』白桃書房、p.ii。
7. 遠藤貴宏(2018)「大学の経営モデルと『国際化』の内実」佐藤郁哉編著『50年目の大学解体と20年後の大学再生―高等教育政策をめぐる知の貧困を越えて』京都大学学術出版会。
8. 浅川和宏(2021)「経営研究の国際標準化時代における質の高い論文の条件―日本からのアプローチ」青島編(2021)上掲書、pp.13-20。
9. ギリシア神話に登場してくる強盗。つかまえた旅人を寝台の上に置いて、体がはみ出せばその部分を切断し、逆に身長が足りなければ引き伸ばして殺害した。
10. 佐藤郁哉編著(2018)上掲書、佐藤郁哉(2019)『大学改革の迷走』筑摩書房。