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『経済大国インドの機会と挑戦』を持つ佐藤隆広氏

いま、インド経済に世界が注目している。国際連合の中位推計によれば、2023年1月から7月にかけて、中国の人口が14億2585万人から14 億2567万人と18万人減少するのに対して、インドの人口は14億2203万人から14億2863万人と660万人も増加する。これは、千葉県の人口を超えるほどの規模に相当する。今年、インドは世界最大の人口大国になった。

長らく一人っ子政策を採用してきた中国に対し、インドでは2060年代に至るまで人口増加が続く見込みだ。少子高齢化が進展しつつある東アジア諸国とは対照的に、インドは生産年齢人口比率(15歳から64歳までの人口比率)も2032年の69%まで上昇し、2070年代に入るまで60%台を維持し続ける。こうした世界最大の人口規模とその構造が、膨大な購買力と豊富な労働力を生み出し、「市場」、そして「生産拠点」としてのインド経済の魅力を高めている。

実際、国際通貨基金(IMF)によると、ドルでみた国内総生産(GDP)では、インドは2021年に旧宗主国の英国を抜き、世界第5位になった。IMFの予測では、その後2027年には日本とドイツを抜き、二大超大国である米国と中国に次ぐ世界第3位の経済大国になる。

インドの市場規模をイメージするために、携帯電話と自動車を取り上げてみよう。インド政府の統計によれば、携帯電話の生産額は2014 年の4300億円から3兆5600億円と8倍以上に、生産台数は同期間で5800万台から3億1000万台と5倍以上に増加している。その結果、インドは、現在、携帯電話生産では中国に次いで世界第2位である。また、2022年のインド国内の新車販売台数は473万台となり、日本を抜いて世界第3 位である。すでに、インド自動車産業の生産能力は2018年に500万台を突破しており、2030年代の早い段階で1000万台を超えることが予想されている。生産能力規模においても、インドが日本を抜いて世界第3位になるのはほぼ間違いない。さらに、インドは、オートバイの生産能力では実に2500 万台程度あり、すでに中国を抜いて世界最大である。

2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻や台湾海峡における軍事的緊張の高まりなどの地政学的リスクの顕在化に伴って、世界的な規模でサプライチェーンの脱中国化が始まった。外交の舞台では、インドは、日米豪の「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)のみならず、中露が主導している上海協力機構(SCO)のメンバーでもある。インドは、中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)の加盟国である一方で、中国の一帯一路(BRI)には強く反対している。インドは、ロシアのウクライナ侵攻に対する国連非難決議では中国とともに棄権をしているのと同時に、世界貿易機関(WTO)、国連気候変動枠組条約締約国会議(COP)やG20 などの国際的な檜舞台では、発展途上国・新興国、いわゆるグローバルサウスの利害を雄弁に代弁している。

上記のように、インドが中露陣営と西側の間で多元主義的な独自外交を展開しているなか、生産拠点としてのインドの潜在能力に西側各国が再び注目をするようになってきた。インドはアフリカや中東諸国に近く、数百万人規模に達する在外インド人がこれらの地域で活躍しており、アフリカや中東諸国の市場開拓に向けた海外戦略拠点としての優位性が存在している。サプライチェーンの脱中国化がなかったとしても、賃金の上昇や経済の成熟化が進展している中国の生産拠点としての魅力が低下し、若年層の人口比率が高く豊富な労働力に恵まれているインドに注目が集まるのは、自然であろう。

実際、インド政府は、生産拠点としての魅力を高めるべく、企業が直面している事業障壁の改善に取り組んできた。2014 年からスタートしたナレンドラ・モディ政権は、例えば、外国直接投資規制の緩和や計画委員会の廃止などの行財政改革などにも取り組み、2016 年の破産・倒産法制度・2017 年の物品サービス税(GST)・2022 年の国営航空会社の民営化など、国内外の企業の活力を向上させるような経済改革を実行している。実際、世界銀行による事業環境ランキングをみると、インドの事業環境は大幅に改善し、2014年の世界第142位から2020年の第62位と80カ国をごぼう抜きにしている。

また、モディ政権は、新型コロナ禍の2020年から、32兆円規模の大型経済対策「自立するインド」の一環として、「生産連動インセンティブ計画」(PLI)という戦略的産業の育成に向けた補助金政策を開始した。PLI は、(1)携帯電話・特定電子部品、(2)医薬品原料、(3)医療機器、(4)先端化学・セル電池、(5)電子・技術製品、(6)自動車・自動車部品、(7)医薬品、(8)通信・ネットワーク機器、(9)化学・産業用繊維製品、(10)食品加工、(11)高効率太陽光発電モジュール、(12)白物家電、(13)特殊鋼、(14)ドローンの14 産業部門に対して、あらかじめ定められた投資額と生産額を満たした企業に対して5~6年にわたって生産額の4~6%程度の補助金を提供するものである。このPLIには、インド地場企業だけではなく、外資企業も多数参加している。PLI で最も注目されているのが、アップルのiPhone のインド国内での製造であろう。iPhoneを製造しているフォックスコン・ペガトロン・ウィストロンの台湾メーカー3社は、インドに製造拠点を設けて、現在、PLIに参加している。2021年のiPhone の世界生産に占めるインドの割合はわずか1 %だったのが、2022 年には7%にまで増加し、インドからのiPhone の輸出額が50 億ドルに達して前年比で4倍近くにまで増加した。さらに、インド最大財閥の一角であるタタが、ウィストロンのiPhone 製造工場を買収し、インド企業で初めてのiPhone 製造企業になる可能性がある。アップルは、2025年までにiPhoneの世界生産の25 %をインドに移管する可能性もあり、インドがサプライチェーン強靭化の主役になるかもしれない。

PLIに加えて、モディ政権は、半導体の国産化に向けて巨額の補助金を支給する政策「インド半導体ミッション」(ISM)も公表している。予算規模は1兆2160 億円で、半導体製造工場の立上げ費用の50%をインド政府が補助する、というものである。フォックスコンのインド地場企業との合弁のほかに2社が半導体の国産化に名乗りを上げているが、さらに、タタも追随する可能性があると報道されている。iPhoneを始めとするスマートフォンの国産化の進展は、インドにおける半導体の需要増加を必然とするであろう。こうした需要増加を、半導体の輸入だけでなく、その国産化を通じて対応することは、決して不自然ではない。また、インド国内に半導体製造拠点ができることは、世界的なサプライチェーンの脱中国化やその強靭化に直接貢献することにもなる。ISMでは参加企業がまだ決定されていないが、その行方は生産拠点としてのインドの潜在力を測る試金石として十分注目に値する。

加えて、インドは、米国と中国に次ぐ、スタートアップ企業大国であるだけでなく、グローバル経営人材の世界的供給国でもある。CBインサイツの資料を利用して、企業価値が10億ドル以上の未上場企業であるユニコーンの企業数をみると、米国が656社で世界第1位、中国が171社で世界第2位、インドが70社で世界第3位となっている。その企業価値でも同様の順位で、米国が2兆640 億ドル、中国が7380億ドル、インドが1930億ドルとなっている。インドは、企業数でも企業価値においても2023年5月時点で世界第3位である。さらに、インドは、Googleのサンダー・ピチャイ、マイクロソフトのサティア・ナデラ、IBM のアルビンド・クリシュナ、Adobe のシャンタヌ・ナラヤンなどのインド人の最高経営責任者(CEO)を輩出している。とりわけ、超大手テクノロジー企業のGAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)のうち2社のCEO がインド人であることは特筆に値する。さらに、世界最大規模の鉄鋼メーカーのアルセロール・ミッタルのCEO ラクシュミー・ミッタルは、現在、インド事業では日本製鉄のパートナーとなっているし、直近では、マスターカードのCEO を歴任したアジャイ・バンガは2023年6月に世界銀行第14代総裁に就任している。

本書『経済大国インドの機会と挑戦』は、上記のような「経済大国」としての輝かしいインド経済の現状と今後に注目すると同時に、いまだに、国民の多数が農村に居住しており、零細な規模での自営業や劣悪な環境のもとで低賃金労働に従事せざるを得ない多数の貧困者が存在している「貧困国」としての実態にも正面から向き合った。本書の構成を簡単に示したい。第一部は、グローバル・バリューチェーン(国際価値連鎖、GVC)と地政学的リスクに関するテーマを取り上げる。ここでは、インド経済の国際価値連鎖への参入とその産業高度化(第1章)とインドを始めとする南アジア諸国に対する中国政府による一帯一路の展開(第2章)を検討する。第二部は、10産業分野を取り上げて、インドの産業発展の現状を、現地調査を通じた観察を含めて個別具体的に明らかにする。乳業(第3章)、ダイヤモンド研磨業とエビ養殖業の比較研究(第4章)、縫製産業(第5章と第6章)、製薬産業(第7章)、鉄鋼産業(第8章)、自転車産業とトラクター産業の比較研究(第9章)、輸送機械産業(第10章と第11章)、非銀行系(ノンバンク)金融部門(第12章)を順に取り上げる。最後の第三部は、インドの産業発展に関連して、雇用問題(第13章)、経済地理(第14章)、グジャラート州の政治経済(第15章)を論じる。読者は、本書の通読を通じて、経済大国と同時に貧困国でもあるインド経済の多様な側面を知ることになるであろう。

本書の執筆者は、それぞれ、経済学・経営学・地理学・ジェンダー研究などの各分野で研究の第一線にあり、内外の研究動向と研究水準を熟知している。執筆者は、専門的な議論によって本書への学術的貢献を目指していると同時に、インド経済に関心を持つ一般読者にも理解しやすいような記述を試みている。インドでは、来年2024年に総選挙が実施予定である。第3次モディ政権がスタートするのかどうかに関わらず、本書がインド経済の展望に役立つならば幸いである。

神戸大学の学術補佐員だった三宅景子氏には、本書に結実する共同研究活動に対して手厚いご支援をいただいた。また、本書執筆にあたっては、故・安保哲夫氏(東京大学名誉教授)、糸久正人氏(法政大学)、岡島成治氏(大阪経済大学)、加藤篤行氏(金沢大学)、鎌田伊佐生氏(新潟県立大学)、川中薫氏(国際ファッション専門職大学)、西山博幸氏(兵庫県立大学)、藤森梓氏(大阪成蹊大学)、古田学氏(愛知学院大学)、山本明日香氏(九州大学)から、多数の有意義なコメントをいただいた。さらに、本書の出版に際しては、前著『図解インド経済大全』(佐藤隆広・上野正樹編著、2021 年)に引き続いて、白桃書房の寺島淳一氏に一方ならぬご尽力をいただいた。そして、本書は、科研費・基盤研究(A)「南アジアの産業発展と日系企業のグローバル生産ネットワーク」(研究課題番号:17H01652、研究代表者:佐藤隆広)の研究助成を受けている。関係各位のご協力に、執筆者を代表して心より感謝いたします。

2023年7月12日
佐 藤 隆 広

編著 佐藤隆広
出版年月日 2023/09/26
ISBN 9784561911413
判型・ページ数 A5・524ページ
定価 本体4545円+税