本書の最終翻訳のステージで,おそらく今後長きにわたって歴史に刻み込まれることになる新型コロナウイルス感染症によるパンデミックが世界中を襲った.変わることに消極的だった企業にも今や期せずして好機到来である.企業活動のベースとなる価値観や,わたしたちのQOL に関する考え方,個々人のライフスタイルも大きく変化している.もう現実を直視しない楽観論や過度の悲観論に遠慮することはない.変わることのリスクだけを述べる社内評論家にも企業は任せておけない.
いまや,デジタルによる変革は,待ったなしの状況である.まさに本書がこれからの企業経営の方向性を示唆してくれるものと考えている.本書が,将来,企業や事業を主体的に担っていこうと考えている皆様のこれからの経営の参考になれば,訳者としてこれ以上の喜びはない.
本書の特徴は,デジタル経営変革を戦略的マーケティングの立場から論じているところにある.それは,著者であるDavid Rogers の次のような考え方に基づいている.「企業経営を取り巻く環境やパラダイムが変わった今,求められているのは単純なアナログのデジタルシフトではない.戦略思考のアップ・グレードそのものである.」本書では,デジタルの力が大きく変えようとしている5 つのカギとなる事業領域を共有したうえで,新たなビジネス・モデルや戦略を論じている.5 つの領域とは,顧客(Customers),競争(Competition),データ(Data),革新(Innovation),価値(Value)である.シンプルには,CC-DIV(シー・シー・ディブ)である.
この5 つは,DX を考えるうえで,きわめて重要な要素である.たとえば,顧客に関していうと,“The network is your customer”(ネットワークが顧客である)ということを認識する必要があるとDavid Rogers は主張する.研究機関であっても,特殊な行政組織や教育機関であっても,ネットワークが顧客であるという認識で経営に当たらなければならないことを強調しておきたい.
このほかにも,本書では,DX 時代には,競争がプラットフォームというビジネス・モデルで展開されること,データを資産として認識することが重要であること,革新はプロトタイプを基に,市場との相互作用で推進すること,さらに,価値は,製品ではなく顧客に対する問題解決を通して実現していくことなどを説明する.そのうえで提供する顧客価値とそれを支える機能戦略などを含むビジネス・モデルについて解説を加えながら,DX 戦略の実践をサポートしていく.
実際のところ,多くの企業では,経営のいろいろな局面において,アナログからデジタルへのシフトが検討されている.実際に最近訳者が実施したヒアリング調査(注1)でも,CTO(Chief Technology Officer)やCIO(Chief Information Officer)の関心事が,近年,技術を活用した業務の効率化やリスクの低減等の機能的なテーマから,技術を活用して事業形態をどのように進化させるかという戦略的なテーマにシフトしていることが明らかになっている.前書きとして,訳者らの実施した調査結果を中心に,DX の効果に関する実証研究をいくつかご紹介する.
まず,2018年10月に,日本国内の製造業を対象に,DX 技術を活用しているか否か,戦略的マーケティングが浸透しているか否かという2 つの軸で分類を行い,各象限の業績比較を行った(調査数:配信数4586 回答者数369名 有効回答数335名).
その調査の結果が下記のチャートである.マーケティングに関する設問に対する回答結果を基に主成分分析を行い,主成分得点を基に,調査対象を4 つの象限のセグメントに分類した.企業の業績を評価する複数の指標(ここでの成果とは,該当する企業の売上成長率,利益率,競争優位性などの評価項目)をそれぞれ5 段階尺度で評価したものの平均値である.DX 技術も戦略的マーケティングも両方とも実践している企業(これを「DX 革新経営」と称した)の業績が圧倒的に高いという結果が出ている(注2).
次に,DX プロジェクトの立ち上げを成功させるためのポイントに関する調査をご紹介する.大きな成果が期待されるDX プロジェクトではあるが,実際にDX 推進室を設立し,DX プロジェクトをスタートさせた企業も数多く存在する一方で,自ら変化を創出していくことに躊躇する企業も少なくない.DX の導入支援を行うICT 企業側でも,従来のレガシー営業から,DX プロジェクトを推進する営業チームの強化が進められているものの,DX プロジェクトを進めるチームとして,どのようなスキルセットやアプローチ及び体制が必要になるかという点に関して,明確な答えを持たないままプロジェクトを進めているケースが少なからず見受けられる.
2019年10月に,DX を実際に導入する企業の側において,プロジェクトの準備状況,いわゆる即応性(DX readiness)が内発的にどのように形成されるか,さらには,即応状況が外発的に売り手企業のどのような要素によってもたらされたかということを明確にすることを目的として調査を実施した(国内の企業勤務で自社内のDX もしくは,ICT 導入の決済権を持つもしくは決済にあたって情報収集を行う立場にある課長職以上, 1 企業から1 名までの回答,調査数:予備調査2839名,回答数399名,有効回答数387名を対象)(注3).
DX 導入検討企業の即納性に影響を与える要素として,(1)組織俊敏性,(2)DX 戦略思考性,(3)分析スキル,(4) DX 戦略思考性,(5)精緻化能力を設定した.(1)と(2)がDX 導入検討企業に関する要素で,(3)(4)(5)がDX 導入支援企業に関する要素である.それぞれの要素に関する設問を複数用意し,各回答に関して主成分分析を行い4 象限に分類した(即納性に関しては, 5 段階で評価, 5 :高い ⇔ 1 :低い).組織俊敏性とDX 戦略思考性に関する設問は,本書の最後に添付してあるDavid Rogers の診断ツールを参考にして操作化した.
DX 導入企業検討企業の組織俊敏性とDX 戦略思考性,そしてDX 導入を支援する企業の分析スキル,精緻化能力が,DX プロジェクトの導入に関する準備状況としての即納性に影響を与えていることが確認できた.特に導入企業に関しては,組織俊敏性とDX 戦略思考性の両方とも高いことが,また,支援企業に関しては,分析スキルと精緻化能力の両方とも高い場合に即納性が高まるということが統計的に有意なレベルで検証されている.
最後に,DX については,David Rogers の指摘する通り,価値提案(バリュー・プロポジション)とそれを支える価値ネットワーク(バリュー・ネットワーク)の2 つから考える必要があると考える.デジタルによる変革が成功するかどうかは,まず,価値提案のユニーク性にかかっている.仮に,価値提案がユニークであっても,それを実現する方法が,競合にとって模倣しやすいものである場合,競争優位性が長続きしないことになる.
上記の文脈で,DX の活用領域と業績の関係にスポットを当てた実証研究を紹介する.DX の領域には,顧客価値の領域とそれを支える業務効率の領域があり,その2 つの領域でDX を導入した場合は,ほかのケースに比べて圧倒的に高い業績が期待できるという結果が得られている(注4).
ところで,訳者が,本書『DX 戦略立案書』に最初に出会ったのは,シカゴに出張に行ったついでに立ち寄ったNY でのカンファレンスだった.その会場で知人に著者David Rogers を紹介してもらったのが最初であった.カンファレンスでは,著者の明解なメッセージと実務的にとても使いやすいフレームワークに魅了されたことを覚えている.その後本書のコンセプトやフレームワークを,訳者の実施するプロジェクトでも導入させていただき,クライアントの皆様からも高い評価をいただくことができた.本書の有効性については,実践段階ですでに実証済みである.ニュー・ノーマルの時代におけるDX 経営を考えるうえで,たくさんの示唆を本書は提供してくれるはずである.
訳者まえがきを締めくくるにあたり,いつもエキサイティングなプロジェクトに導いてくださるクライアントの皆様,そのプロジェクトをサポートしてくれているスタッフの皆様に感謝の気持ちを表したい.そもそも本書を世に出さなければいけないと考え,プロジェクト化したのは,クライアントの皆様のプロジェクトに対する情熱に動かされたからだ.
本書に関する分析や翻訳作業は,訳者がコンサルティング,学術研究の合間を縫って行ったが,2019年度の大学院のゼミの学生の皆様には忙しいにもかかわらず,率先して最後のレビューを行っていただいた.矢野良二,辻真典,山田康晴,渡辺聡,そしてゼミOB の中島成晃,野田彩子(敬称略)及びそのスタッフの皆様に深く感謝したい.デジタル・ネイティブな藤田マリ子氏からも有益なアドバイスを頂戴した.
今回も白桃書房の平千枝子氏には,大変お世話になりました.コロナ禍で編集作業にも各種の制約が生じた中でも粘り強く,優しくも厳しいご指導で導いてくださいました.改めて御礼申し上げます.
最後に,仕事に関してもいろいろな刺激をくれる友人の皆様,そして家族のみんなにも感謝をしたい.
晩秋の桂川にかかる渡月橋を望むカフェにて
笠原英一
注
1 2018年7 月から9 月にかけて日立製作所,NEC,エプソン,富士通等にヒアリング調査を実施.
2 笠原英一・中島成晃(2018)「BtoB 企業のデジタル・トランスフォーメーションに関する実態調査・研究―DX の本質を構成する5 つの要素を中心として」 研究・イノベーション学会年次学術大会講演要旨集(第33回年次学術大会)
3 笠原英一・中島成晃(2019)「DX プロジェクトを推進する営業活動に関する調査研究―デジタル変革の本質と顧客の購買センターにおけるreadiness(即応性)をベースとして」研究・イノベーション学会年次学術大会講演要旨集(第34回年次学術大会)
4 Weill, P. & Woener, S. (2019) , “Is Your Company Ready for a Digital Future?” MIT Sloan Management Review, 35.
〔ウェブ掲載用に改行などを再編集しています〕
著 | デビッド ロジャース 著 笠原 英一 訳 |
---|---|
出版年月日 | 2021/01/16 |
ISBN | 9784561267461 |
判型・ページ数 | A5判・336ページ |
定価 | 定価4620円(本体4200円+税) |