本書は、レッセフェールを標榜してきた香港が、「返還」後一貫して徹底した新自由主義的政策を遂行してきたことを描いたものである。

本書では、香港政府が病的なまでに政府債務を嫌い、均衡予算にこだわっている様子が描かれている。2014年には政府の累積積立金がGDPの3分の1、22ヶ月間の政府支出をまかなうに足る額に達したという。政府債務もほとんどない。別資料によれば、同GDP比が2018年には最低の0.05%を記録している。
このための緊縮政策で、自助努力の声の下、もともと劣悪な状況だった福祉、教育、医療、住宅への政府支出がますます削減され、民衆の生活は悲惨になった。ところが「実業界向けの政策支援に対しては、いつでも財源があるようだった」。財政余剰が出れば減税に回ったが貧者の恩恵は少なく、財界側ばかりが得をした。中国本土市場への企業のアクセスを求めて中央政府に平身低頭するも、いつも冷遇されてきた。
一読してこれは、世界中で見られてきたことを多少極端にしただけだとわかる。その意味で全くひとごとではない記述が続く。

ところで、本書にはひとつ重要なことが書かれていない——香港には中央銀行がない。このことの持つ意味を分析すれば本書は深みを持っただろう。
香港ドルを発行しているのは三行の商業銀行である。しかも米ドルに対して厳格な固定為替相場制(カレンシーボード制)になっている。なので、他国と違い、政府債務は文字通りの借金である。これが香港政府が緊縮政策に執着する背景である。

自前の中央銀行と通貨を持たないギリシャは財政規律の呪縛から逃れられなかったが、欧州人民と連帯して欧州中央銀行をコントロールできれば話は別である。しかし香港はそもそも通貨発行が一部の大銀行家の手に公然と握られている仕組みなのである。
変動相場制の通貨発行権を持つ国が財政破綻することはあり得ないことは、MMTに限らず経済学の常識である。究極的には政府債務を通貨発行で返せる。その障害は、ただ財やサービスの供給能力の制約だけである。変動相場制ならば資金流出による通貨の下落には輸出増による歯止めが自然にかかる。
通貨危機が起こるのは固定相場制のケースである。通貨下落を防ぐための金利高騰に景気が耐えられないので、どこかで通貨価値維持が断念されるからである。ところがアジア通貨危機のとき、香港は金利暴騰を厭わず通貨価値を守り切った。それでどれだけ多くの犠牲者が生み出されるリスクがあろうが気にしない。これが香港の経済システムの性質なのである。

さて、本書の叙述は2018年で終わっているので、2019年6月から始まった(逃亡犯引き渡し条例に端を発する)反政府抗議活動はカバーされていない。しかし読者は容易に、これまでの緊縮政策がもたらした悲惨への怒りがその背景にあったことに気づくであろう。その意味で、香港人民の命がけの闘いもまたひとごとではない。ポストコロナの時代、われわれにも同様の闘いが迫られるだろうことに気づかされる。

松尾匡(まつお・ただす 立命館大学経済学部教授)

1964年、石川県生まれ。’87年、金沢大学経済学部卒業。’92年、神戸大学大学院経済学研究科博士課程後期課程修了。経済学博士。久留米大学経済学部教授を経て、2008年、立命館大学経済学部教授。著書に『自由のジレンマを解く』『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(以上、PHP新書)、『この経済政策が民主主義を救う』(大月書店)、『資本主義から脱却せよ』(共著、光文社新書)、『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』(共著、亜紀書房)、『新しい左翼入門』『左翼の逆襲』(以上、講談社現代新書)などがある。

書名 香港 失政の軌跡─市場原理妄信が招いた社会の歪み
レオ F・グッドスタット 著
曽根 康雄 監訳・訳
出版年月日 2021/10/06(仮)
ISBN 9784561913177
判型・ページ数 A5判・240ページ
定価 定価3300円(本体3000円+税)