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 科学が作り出そうとする知識の中核は因果知識である。どのような原因条件によって,どのような結果が生まれるのか,この因果知識があれば,原因条件を統制することによって,将来の出来事や結果を統制する途が開ける。因果知識の提供は,社会が科学に期待する最も大きい効用である。

 実証研究によって因果知識を獲得するため,社会科学ではふたつの方法がとられてきた。ひとつは統計学による計量研究であり,他のひとつは事例にもとづく定性研究である。計量研究は分析に必要な十分な数のデータが利用できる領域で盛んに行われてきた。これに対して,事例にもとづく定性研究は統計分析が不可能な領域での主要な方法であった。統計学が定型的な分析技法を多様に展開してきたのに対して,事例研究の方法は非定型的であり,その多くは指針の域をでないものであった。統計分析しか知らない者の目には,事例研究の方法は科学的方法というよりも,一種の技芸として映じているかもしれない。

 しかし,前世紀の終わり頃から,因果知識の獲得を目指す事例研究の方法論に革新が生じた。QCA(Qualitative Comparative Analysis, 質的比較分析)と呼ばれる方法の登場である。欧米ではこの方法は政治学,社会学,経済学,経営学,法学など社会科学の主要分野に急速に拡がっている。それはその開発者にちなんで「レイガン革命」とまで呼ばれるようになった。

 QCAは統計分析が使えず,スモールデータとしかいえないような少数事例から因果知識を引き出そうとする定型的な方法である。しかも,原因条件やそれが生み出す結果についてのコンセプト(概念)が精密に規定できずファジィであるような領域にまで,その分析射程を広げている。ファジィな領域での少数事例から複雑な因果関係を探る。QCAの挑戦はきわめて野心的である。QCAは従来の計量研究と定性研究の橋渡しをするだけでなく,この両者を止揚する第3の途を切り開こうとしているようにも見える。

 QCAが挑戦している課題は,経営研究者や産業人が直面する課題と相似している。経営の世界では,急速な変化は茶飯事であり,新しい事象が日々生まれている。それに対応してどう行動すればよいのか。それは経営世界での再重要課題である。その指針となるのは,その創発事象を支配している因果についての知識である。しかしそれを発見するためのデータはスモールデータであり,原因や結果を捉えるコンセプト自体も流動的でファジィである。さらに複数原因が相互作用し因果関係は錯綜している。この領域では最新の統計技法ですら,多くの場合,陸に上がったカッパになる。

 これらのことを念頭に置き,ほぼ10年も前に筆者は,経営知識創造を目指すリサーチ・デザインで,QCAで重要な分析手法になることを指摘した(『リサーチ・デザイン -経営知識創造の基本技術』白桃書房,2006年)。幸いにして,この書は現在にいたるまで毎年版を重ねたから,多くの読者がQCAの存在を知ったはずである。それにもかかわらず,欧米での急速な普及とは対照的に,わが国でのQCA利用はまだほとんど普及していない。社会学や政治学の領域においてさえ,少数の専門書や論文が現れているにすぎない。経営学の領域ではその利用は皆無に近い。

 経営学や産業界での利用にかぎれば,普及の障害として次の2点が考えられる。ひとつは,欧米でもQCA利用の手引き書は近年になってようやく出始めたが,邦語文献ではQCA利用の手引きになるようなテキストがまだ存在しないことである。QCAを習得しようとすれば,いくつかの専門的な外国文献に当たる必要がある。もうひとつの理由は,QCAが社会学・政治学の領域で生誕したことを反映して,外国文献でもその利用は社会学や政治学の問題領域を例に語られていることが多い。これが経営学徒の理解を妨げている。

 本書はこれらの障害を克服するために,経営学の問題領域を例として使いながら,QCAの考え方やその基本技法を概説した。本書をテキストにしてその知識を習得すれば,QCAによる経営事例分析に取りかかることができよう。QCAに関心を持つ経営学徒以外の読者も理解できるように,使っている経営事例は専門知識を要しない簡単な事例とした。QCAの本格的利用をめざす専門的な調査・研究者を主たる対象にした補論を除けば,本書を読むのに何らの事前知識も前提にしていない。QCAは集合論やブール代数を使うがそのほとんどは高校初年度で習う水準の初歩的なものであり,事前知識なしで理解できるものである。本書によってQCA利用が普及し,経営学や産業界での事例研究・調査の水準が向上することを祈念している。

 最後に,本書の構成に関して,坂川裕司(北海道大学)氏のご協力をいただいた。また,出版事情が厳しいにもかかわらず,本書の出版を快く引き受けていただいただけでなく,編集など種々な労をおとりいただいた白桃書房の大矢栄一郎社長に感謝を申し上げたい。

2015年6月20日
田村正紀

著者 田村 正紀 著
出版年月日 2015/09/16
ISBN 9784561266648
判型・ページ数 A5・232ページ
定価 本体2,700円+税