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■■■ は じ め に ■■■

 本書は、企業の事業承継と後継者の育成について、経営学の概念をもとに平易に解説したものです。事業承継のハウツーを論じるものではなく、 数世代にわたって事業承継を成功させてきた企業を題材にして、経営課題として事業承継を考える視点や枠組みを提供することを目的にしています。

 昨今、企業の事業承継の問題は、中小企業庁を中心に全国事業承継推進会議が設置されるなど、重要な課題として関心が向けられています。少子高齢化が進展する日本において、企業の廃業がもたらす日本経済への負の影響は大きく、事業承継の成否が日本の産業活力の維持拡大を左右する重要な要素であるといっても良いでしょう。

 筆者は仕事柄、事業承継をひかえた経営者や承継支援を行う士業の方々とお話する機会が多くあります。彼らからは、一体どこから手をつけるべきか、いつから取り組むべきか、どのように進めていくべきかがわからないという声をよく聞きます。これは、事業承継が重要な課題であると認識されながらも、問題の焦点を掴みきれていないことが原因だと考えられます。
事業承継とは、事業体の経営権を現経営者から後継経営者に移転することです。言葉で表すと簡単ですが、実際の事業承継における行動の中には多数の要素が存在し、複雑に絡みあっています。事業承継を難しくする要素として、3つの典型的な問題が存在します。それは、世代間のギャップ、 同族と非同族のギャップ、伝統と革新のギャップから生じる問題です。

 第1の世代間ギャップの問題とは、現経営者と後継者の価値観の違いから生じる問題です。日本企業の多くは、ファミリービジネスであるといわれています。例えば、ファミリービジネスの場合は親から子への事業承継が行われます。現経営者と後継者の年齢差は一世代分開くことになります。両者の生きてきた時代が異なるため、形成される価値観が異なってきます。 事業承継では、これが対立や衝突の火種になる可能性を秘めています。

 第2の同族・非同族のギャップの問題とは、ファミリービジネスにおいて同族と非同族の処遇の違いから生じる問題のことです。ファミリービジネスの後継者に対しては、将来の経営者になるために特別な処遇がなされます。一方で非同族の従業員は昇進が限定されるために、同族と非同族との間に大きな溝を生んでしまう原因となることがあります。

 第3の伝統・革新のギャップの問題とは、企業として変化させてはいけないものと変化すべきものの違いから生じる問題のことです。企業を取り巻く経営環境は刻々と変化しています。そのため、企業には環境に適応する革新的行動が求められます。しかし、現経営者の世代は、企業の伝統や商慣習などの影響を受けます。一方で後継者は、組織の過去の文脈に染まっていないため、新しいことに取り組みやすいといえます。事業承継では、 企業の伝統や慣習といった変えざるものと時代環境に合わせて変化させて いくものとが衝突しあう、もしくは古い慣習が新しい取り組みを潰してしまうような問題を生じさせることがあります。

 このように、事業承継は多様な要素が絡みあう難しい問題ですが、経営学の視点からマネジメントできれば積極的な意味を引き出すことができる可能性があります。それが、「事業承継を企業のイノベーションをおこす契機にする」ということです。経済学者のシュムペーター(Schumpeter, J. A.)によると、イノベーションとは性質の異なるもののぶつけ合いが生み出す新結合のことを示します。事業承継における世代間、同族・非同族、伝統・革新などの互いに異なるものを上手にマネジメントして融合できれば、イノベーションの発露にすることも可能でしょう。

 従来、事業承継の問題は、資産承継や会計税務など実務的・手続き的な観点からの議論が多かったため、真正面から経営課題として論じてこられることが少なかったように思います。この領域を専門とする学者としては、 経営学の視点から事業承継を論じる書籍の必要性を感じていました。事業承継の問題が、後継者を育成することであり、組織にイノベーションを起こすことであるならば、経営学が多いに役に立つはずです。経営戦略、経営組織、ガバナンスなどの多様な観点から、複雑な事業承継の課題を検討 することが可能です。

 本書は、前著『事業承継のジレンマ:後継者の制約と自律のマネジメント』(2016年、白桃書房)にもある老舗企業の事例、ならびに幻冬舎ゴールドオンラインの連載記事をベースにして、新たに書き下ろしたものです。

 本書が想定する読者は、事業承継にかかわる当事者(先代経営者、後継者など)、支援者(士業の専門家など)、ビジネススクールの学生、次世代 経営者育成にかかわる研修担当者の方々などです。当事者と支援者の方々には、企業の経営課題という観点から事業承継問題の切り口を掴んで頂けると思います。ビジネススクールの学生の方には、事業承継のケースを読み解きディスカッションを行う際の教科書として活用して頂けるようにしています。事業承継にかかわる研修担当者の方々には、研修テキストとしてご使用頂けると考えています。読者の皆様には、経営学の視点からの事業承継について比較的容易に理解をして頂けるよう、構成や記述を簡潔に して要点をしぼるなどの工夫しています。

 また、本書の大きな特徴は、ファミリービジネスの事例をベースにしながらも、そこから得られた知見がファミリービジネスのみならず大企業から中小企業までどのような企業・組織にも有用なものであることを明確にし、その点を各章の章末に「POINT」としてまとめ、その視点や考え方 を提供していることです。ぜひ、ファミリービジネスの方々はもとより、ベンチャー企業から一般の大企業の方々まで、広くお読み頂ければと考えています。

 最後に、株式会社白桃書房の編集長の平千枝子氏ならびに金子歓子氏には、本書の編集において大変お世話になりました。学術書である前著のエッセンスを実務界の方々に還元する必要性を平氏に説いて頂くことがなければ、かつ金子氏の細部にわたる編集上の緻密な校正がなければ、本書が日の目を見ることはありませんでした。ここに記して感謝を申し上げます。 また、仕事の虫である筆者を陰ながら支えてくれた、妻・奈緒美と子供たち(柊介、凛々子、美也子)に感謝の意を表したいと思います。

令和元年7月
自宅書斎にて
著 者

落合 康裕
出版年月日 2019/09/06
ISBN 9784561257349
判型・ページ数 A5判・168ページ
定価 本体2273円+税