『香港 失政の軌跡』(レオ・F・グッドスタット著)の監訳・訳者の曽根康雄氏(日本大学教授)は、香港の中国返還を跨いで長期駐在を経験し、コロナ禍までは頻繁に香港を往来されていました。先日、2年7ヵ月ぶりに香港に滞在されるとうかがい、ご寄稿いただいたレポートの後編です。
(1)では、入境時の検疫・隔離の様子や変わらぬ効率的な行政サービス、大きく変わった書店・ニューススタンドの品揃えについてレポートいただきました。
このページでは、車内のアナウンスで使われる言語の変化や、香港を去る人、再来する人、そして新行政長官の施政演説を踏まえた香港のレジリエンスへの期待を語ります。(白桃書房編集部)

交通機関の車内アナウンス:「中国化」の兆しか?
国際都市である香港では、公共交通機関の車内アナウンスは広東語・英語・北京語(普通語)の録音音声が流される。隔離ホテルに向かうチャーターバス、香港島の路線バスでは、従来と同じ「広東語→英語→北京語」の順に流れていた。ところが、MTR(鉄道)に乗車したとき、ふと順番が「広東語→北京語→英語」の順に変わっていることに気が付いた。

東鐵線路線

図中央の水色が東鐵線。香港中心部と深圳との境界である羅湖を結ぶ。(MTRウェブサイトより。図をクリックするとMTRサイトで大きな路線図をご覧いただけます。)

最初に気が付いたのが、本土との間を往来する人が多く利用する東鐵線だったので、この路線だけのことかと思ったが、その後注意して聞くと香港島内の路線でも車内アナウンスは「広東語→北京語→英語」の順番になっていた。国際金融センターである香港の第2言語は英語と信じていた筆者にとって、これはかなりショックな発見で、「中国化」がじわじわと浸透している、と感じられた。

もっとも、路線バス(運営は民間企業のCitybus Limited)では従来通りの言語の順番であるところを見ると、その変更は、かつて公営企業だったMTRならではの圧力を受けたものなのだろうか。また、MTR構内から地上に繋がるエレベーターの中のアナウンスも従来通りであった。全ての場所で使用言語の順番が変わった訳ではないことを確認し少し安堵したが、今後の動向に一層の留意が必要である。



教育への不安と「ブレイン・ドレイン」
国安法とコロナ禍により街の雰囲気が大きく変わったのではないかと若干心配していたが、街中は一部を除き相変わらずの賑わいを見せていた。また、地下鉄や地下道の延伸、店舗の新装開店など、生活者にとっての利便性は向上したように感じられた。
しかし、香港にも、ゼロコロナ政策が未だ続く中国本土並みの入出境の制限が課され、人材の移動の自由が確保されてこなかったことは、国際金融センターとして極めて重大なハンディであった。加えて、コロナ禍での行動制限への疲れや香港の教育制度への不安などから、学校の新学期が始まるタイミングで香港を離れる家族も多く、筆者の身の回りでも、そのようなケースが頻繁に聞かれた。金融界では、専門人材の離港による「頭脳流出(ブレイン・ドレイン)」が懸念され、人材確保のために人件費が上昇していると言う。

近年、香港の金融機関では、本土出身で、欧米の大学で学位を取得したような優秀な人材の採用が増加している。もっとも、そうした本土出身者でも子供の教育を理由にシンガポール等への移住を検討しているケースがあるという。これは意外だったが、それだけに香港の将来に若干の不安を感じた。本土出身の人材ですら香港での勤務を拒絶したり回避したりするようなことになれば、ブレイン・ドレインによる香港の衰退は現実のものとなる。愛国教育は徐々に進んでいるようではあるが、中国本土のような愛国教育は香港の将来を危うくするだろう。

香港にUターンした出版人
ホテル隔離明けの翌週、翻訳出版したグッドスタット『香港 失政の軌跡』の原著を出版した香港大学出版社(Hong Kong University Press)を訪問した。迎えてくれたのは、代表者(Publisher)のMichel Duckworth氏、版権管理者のFelix、企画編集者のYasmineとKennethの4人。

香港大学出版社

香港大学出版社の建物。香港大学出版社ウェブサイトより。写真は掲載ページにリンクしています。

最初にDuckworth氏から挨拶があり、それに対し当方からは最近始めた香港研究のテーマについて簡単に紹介した。その後、同氏から立て続けに質問された。質問内容は「大湾区構想についてどう思うか」「香港の将来にとって何が重要と思うか」「中国経済について楽観的か悲観的か」というものであった。香港における経済分野での関心事が良く分かった。これらのテーマについて、出版企画を検討中のようである。ちなみに、上記質問への筆者の回答は「大湾区構想は資本自由化の実験(experiment)」「香港の将来にとって最も重要なのは教育」「中国経済に対し悲観的ではないが課題は多い」といったところである。なお、今回の訪問は表敬が目的だったので、国安法の影響云々については敢えて質問しなかった。

Duckworth氏が別の用事で先に退席した後、他の香港人3人と意見交換を行った。同出版社を日本人が訪れるのは極めて稀だそうだが、会話の中で香港人の日本に対する関心が一般的に非常に高いことが伝わった。コロナ前に比べると、日系小売店(ドンキなど)やレストラン(居酒屋系)などが明らかに増加している。日本に旅行が出来ない中で、香港の中で日本の商品やサービスを消費・体験したいという願望が、とくに若年層に強い。日本における香港に対する関心は、もっぱら「中国に呑み込まれる香港」といったステレオタイプが主流だが、日本・香港間の経済関係をきちんと分析していくことは、双方の経済発展にとって重要であると感じた。

香港人の最近の海外移住についても話が及んだが、彼らによれば、香港大学で海外移住のため離職する人はさほど多くはなく、逆に香港に戻ってくる人もいると言う。Duckworth氏もその一人で、同氏は2008~13年に同社の代表者を務めた後、米国で出版の仕事に携わっていたが、つい2週間前に古巣に戻ったばかりだった。同氏の退席後に他の3人に「彼はなぜ香港に戻ってきたのだろうか?」と聞いてみたところ、返ってきた答えは「良く分からないが、おそらく香港が大好きなのだろう」というものであった。筆者も含め、かつて香港に住み仕事をしていた外国人の多くが持つ、香港という都市の居心地の良さが根底にあるのだろう。その答えに共感せずにはいられなかった。

レジリエンスは発揮されるか?
2年7ヶ月振りに訪れた香港は、海外からの観光客が少ないことを除けば、表面的にはあまり大きな変化は感じられなかった。地場のマーケットは買い物客で溢れ、人々の表情も明るかった。ただし、2020年2月以来運行停止状態が続いているマカオフェリー・ターミナルは、人影はまばらで、殆どの商店・レストランが休業しており、まさに“ゴーストタウン”の様相を呈していた。とは言え、ベニヤ板で囲って改装している店舗も多く、コロナ禍が収束し、観光客の往来が復活した暁には新たな装いで再び活気のある姿を見せてくれるのではないかという、ちょっとしたワクワク感も漂わせていた。

寂しいマカオフェリーターミナル

2019年6月以来の政府に対する抗議行動、過激化した若者と警察との衝突、国安法の施行、メディアへの締め付けを経て、かつての香港に戻ることはもはや難しい。しかし、考えてみれば、これまでも常に変化してきたのが香港である。多くの訪問者にとって「かつての香港」とは最初に訪れた時の香港であり、訪れた時期によって「かつての香港」のイメージは人それぞれである。『転がる香港に苔は生えない』(星野博美著)という本のタイトルにもあるように、香港は変化し続けているのであり、これこそ香港が香港たる所以でもある。

近年の香港の変化は、そこに住む人々にとって好ましい方向に進んでいるとは言えない。言論の自由は制約され、メディアも自主規制の色が濃くなっている。子供の教育への不安を理由に、海外に移住したり、移住を考えたりしている家庭も確かに増えている。
一方で、末端の行政スタッフのモラルは維持されており、外国人に対し差別的な扱いが以前に増して多くなったとは思われない。グッドスタットが『香港 失政の軌跡』において、「実務レベルにおいて公務員の倫理的・専門的な行動が組織全体で瓦解する兆候はほとんどない」(210ページ)と述べているように、香港のレジリエンスの根拠となっている公務員の「柔軟性・適応力」および行政サービスのパフォーマンスの公開性は保たれている。これらは「香港が生き残るための苦闘において計り知れないほど貴重であった」ものであり、香港のレジリエンスへの期待を捨て去るのはまだ早いと思われる。

香港政府は新型コロナウィルス感染拡大予防措置を修正し、海外からの入境者に対するホテル隔離措置を9月26日に撤廃した。ゼロコロナ政策に執着する中央政府も香港の検疫措置の緩和を支持していると伝えられ、コロナ対策における「一国二制度」は機能していると言えよう。

7月に就任した第5代行政長官の李家超(ジョン・リー)は、10月19日の施政演説で「トウ房(SDU、Sub-Divided housing Unit)」問題に言及し、住宅問題への具体的な取り組みを明らかにした。香港政府は5年間で3万戸の「簡易公営住宅」を建設し、公営住宅の総供給戸数を25%増加させる(トウ房のトウは広東語文字で「當+刂」)。従来の公営住宅を申請して3年以上の者の入居を優先し、簡易公営住宅に入居後も従来の公営住宅申請は維持される。公営住宅に入居できるまでの「つなぎ」ではあるが、申請から入居までの平均待ち時間は6年から4.5年に短縮されるという。『香港 失政の軌跡』で鋭く描き出された、これまでの失政が招いた深刻な住宅危機を乗り越えていくことができるか、新たなリーダーの決意と手腕に期待が集まる。

国安法の強い圧力とコロナ禍で疲弊した香港社会が、そのレジリエンスを発揮する過程を今後も見つめ続けていきたい。

※1 本ページの写真のうち特にクレジットのないものは筆者撮影。
※2 サムネイルの写真は、下記3つの写真のコラージュ。
(左端)マカオのホテルのシングル料金表。$0は営業していないことを示す。
(真ん中)オフィスビル入館時にスキャンするQRコード。
(右端)賑わう歩道。

書名 香港 失政の軌跡─市場原理妄信が招いた社会の歪み
レオ F・グッドスタット 著
曽根 康雄 監訳・訳
出版年月日 2021/10/06
ISBN 9784561913177
判型・ページ数 A5判・240ページ
定価 定価3300円(本体3000円+税)