2021年10月に刊行した『香港 失政の軌跡』(レオ・F・グッドスタット著)は、香港返還以降の、過度に新自由主義的な政策が市民生活の質を著しく低下させたことを豊富な事例から客観的かつ力強く描き出し、書評など多方面で取り上げられました。
原著刊行の翌年2019年6月以降、大規模デモが頻発、長期間にわたり市民生活にも多大な影響が及び、鎮圧に頭を悩ませた中国政府は、対抗策として香港国家安全維持法(国安法)の導入に踏み切りました。その結果、民主派メディアが資産凍結・廃刊に追い込まれ、多数の民主派政治家や運動家が逮捕されるなど、返還時に約束されていた一国二制度が実質的に反故にされ、それを嫌った海外への移住者も一層増えたと報じられています。
同書でグッドスタットが讃えていた香港のレジリエンスは消え去ったのでしょうか?
返還を跨いで長期駐在を経験し、コロナ禍までは頻繁に香港を往来していた監訳・訳者の曽根康雄氏(日本大学教授)が2年7ヵ月ぶりに訪問されるとうかがい、市民の生活という視点から、コロナ禍また国安法の導入という極めて大きな衝撃を受けた香港社会の変化、そして変わらない香港をレポートしていただきました。(白桃書房編集部)




入境、そして市中に出るまで

2022年8月14日から9月3日まで香港に滞在した。2020年1月以来、2年7ヶ月振りである。新型コロナウィルス感染症対策として香港は厳しい水際対策を実施してきた。海外からの渡航者には最大時で21日間に及ぶ指定ホテルでの隔離(費用は自己負担)が課されてきた。

2022年に入り隔離期間が7日間に短縮されたため、5月より渡航の準備を始めたが、幸いなことに、出発直前に隔離期間が3日間に短縮された。ただし、隔離終了後も指定された日にPCR検査を受け(計3回)、入境後7日目になるまでは「在宅医学観察期間」として公共施設やレストランに入ることはできない。ワクチン証明やPCR検査結果の記録が管理される「安心出行(LeaveHomeSafe)」というアプリをスマホにダウンロードし、そこに表示されるQRコードの色が黄色から青色に変わった時点(観察期間終了)で、行動制限が解除される仕組みとなっている。

香港国際空港到着後にゲート近くで受けるPCR検査は、予想通り長蛇の列で30分ほど待たされたが、他の手続きについてはスマホで事前に回答した質問票のQRコードにより問題なく通過できた。入境審査の後、ロビーに出ると滞在ホテルのエリアごとに専用バスが手配され、指示にしたがってバスに乗り込む。着陸からバスに乗車するまでの所要時間は、香港政府が約束していた通り2時間に短縮されていた。ただ、夜遅かったこともあり、空港の店舗はすべて閉まっており、かつての賑わいは見られない。やはり香港は廃墟となったか、という気持ちになる。

配られた抗原検査キット。無事陰性が出る。

指定ホテルに着くと、すぐにチェックインの手続き。久し振りに聞く、せっかちで早口の英語にやや困惑。部屋に移動する前に、抗原検査キットをドサッと渡され、毎日検査し、結果をスマホ写真で保存せよと言われる。詳しい説明もなく、やや戸惑う。



変わらぬ行政事務の効率性・公務員のモラル
香港では数年前から身分証(ID)が新しい機能(偽造防止など)のついたものに切り替えられている〔長期滞在の外国人を含む全ての香港居住者にIDカードの取得が義務付けられており、筆者は永住資格のあるPermanent IDを有している〕。カード切り替え期間は、原則として出生年別に割り当てられていたが、コロナ禍で香港に渡航できず切り替え期間を逃した人も多い。筆者の場合もカード切り替え期間がとうに過ぎていたため、今回の滞在中に手続きし、新しいIDカードを取得しなければならない。行動制限が解除された直後の月曜日に切り替え手続きのため湾仔(ワンチャイ)の政府庁舎に出向いた。庁舎と言っても、ID切り替えセンターとして間借りしたフロアのため、その場所に辿り着くまでが入り組んでいた。しかも、QRコード(青色)を提示しなければ中に入れない。

面倒だと思いながら受け付けを済ませたが、その後の手続きは極めて効率的であった。長く待たされることもなく手続き用のブースに行くと、担当者が個人情報等の確認を行い、新しいIDに表示される顔写真の撮影を行う。インターネットで日時を予約する際に個人情報等の入力は済んでいたので、センターに到着してから手続き終了まで、わずか15分であった(新しいIDカードの受け取りは7営業日後)。

手続きが短時間で済んだことだけでなく、全てにおいて英語で対応されたことも、香港の行政手続きが「中国化」していないことの表れと感じた。申請者の英語名を見れば外国人だ(おそらく日本人だ)ということは即座にわかるが、受付、案内、手続き担当者のいずれも、当然のごとく英語で対応してくれた。同様のことは、PCR検査を受けに行った地域コミュニティーセンターでも感じた。計3回のうち土曜の昼時はかなり混んでおり、香港人だけでなく欧米系、東南アジア系、大陸系の家族連れが多かったが、受付・登録・接種の各担当職員は広東語、英語、北京語を使い分け、テキパキと対応していた。

ID更新でとりわけ印象的だったのは、ブースの担当者が非常にフレンドリーだったことである。英語でも、広東語でも、常に笑顔を絶やさず、写真撮影の細かい位置調整まで丁寧に行ってくれた。去る7月1日の返還25周年式典における習近平国家主席のスピーチで、香港の「国際ビジネス環境」維持を強調する姿勢が示されたゆえ、「外国人には出来得る限り親切にせよ」というお達しが公務員機構の末端まで届いているのかと一瞬思った。もっとも、だからと言ってすぐにできる類のことではない。当たり前のごとくに英語で仕事がこなせることが、香港の公務員のアイデンティティの一部になっているのではないか、中国の香港に対する影響力が大きくなっていることで、逆に香港人らしさが強く意識され、それが外国人に対する態度に表れているのではないかと感じる。
香港の行政手続きの効率性は以前と同様に高く、公務員のモラルも低下していないことが確認できて、少しホッとした。北京や上海でも、外国人向けに英語対応はなされるが、筆者の経験では、英語の文書の情報量は中文のオリジナルに比べて少なく、正確に翻訳されていない場合もままある。また、公的機関において英語で対応できる人材は非常に限られている。

PCR検査会場。列は長いが、待っているストレスは少ない

グッドスタット氏の遺作でもあった『香港 失政の軌跡』の中で強調していた香港の“レジリエンス”の根拠である公務員の質の高さ、これは今も健在であり、香港が“生き残る”ことは可能だと確認できたような気がした。

また、香港の住宅街のPCR検査会場においても、私が見ている限りでは、西洋人がイライラしたりトラブルになったりする場面は見かけなかった。むしろ、テーマパークのアトラクションの列に並ぶがごとく、楽しく過ごす外国人の家族がいたのが印象的だった。英国植民地時代と同様に、外国人も香港社会の構成員として当然のごとく生活している。国際都市とは、そのような場所を言うのであろう。北京や上海は言うに及ばず、東京でさえも香港のレベルは遥か彼方であることを認識すべきである。香港人材を誘致して東京を国際金融センターに、などというのは浅はかだろう。



書店・街頭スタンド、図書館に見る自主規制の様相
香港国家安全維持法(国安法)の施行で大きく変化したのは、香港では決して多くはない書店と繁華街の街角に数多くある新聞・雑誌スタンドである。

筆者が定点観測している香港島湾仔の天地図書は中2階の洋書と文具売り場と地下の華語書(中国本土の漢字である簡体字と異なる繁体字の書籍)売り場の2フロア構成だったのが、中2階のフロアは閉じられテナント募集の張り紙が貼られていた。洋書と文具は地階フロアに移動、洋書の配架スペースは大幅に縮小し、中国・香港の政治経済に関する英文書籍は殆どなくなった。
天地図書と同じ湾仔にある三聯書店は、店構えは以前とまったく変化がなかったが、洋書フロアから中国・香港の政治経済に関する英文書籍はほぼ姿を消していた。香港島南部の香港仔(アバディーン)中心地にあった商務院書館は閉店となっていたが、九龍半島の目抜き通りネイサンロードの雑居ビル2階に、結構広いスペースで新たな店舗が開業していた。しかし、ここでも中国・香港の政治経済に関する英文書籍は置いてなかった。

営業していた香港ブックセンター

香港大学構内には授業のテキストを扱う洋書専門書店Swindonがあったが、この店は閉店となっていた。Swindonの中環(セントラル)の中心地の路面地下階にある系列店のHong Kong Book Centreは営業しており、テキストもそこで扱っていたようだったが、学生にとってはキャンパス内にないのは不便であろう。ともあれ、そこでようやく中国・香港関係の英文書籍を見ることができ、目当ての新刊書を購入することができたし、グッドスタットの原著A City Mismanagedのペーパーバック版が売られていることも確認できた。また、中環の一駅隣の金鐘(アドミラリティー)のショッピングモール(パシフィック・プレイス)内にある系列店Kelly & Walshも健在であり、取りあえず安堵した。あとで分かったことだが、 Swindonの尖沙咀の小売店舗は、国安法施行後の2020年7月に営業終了し、その後はオンライン・ショップで営業を続けている。

香港から中国・香港関連の洋書が一掃されてしまったのかと、ひととき落胆したのだが、実態は、主に華語の書籍を扱う書店において、自主的にそれらを扱わないことにしているようだ。

オフィス街・中環(セントラル)地区で営業休止中の新聞・雑誌スタンド,日本語学校の広告らしきものが置いてある。

自主規制は、出版側において一層顕著である。かつて香港の街歩きの楽しみの一つは、街角の新聞・雑誌スタンドで売られている中国情報誌を眺めることであったが、その楽しみは、今回、完全に奪われてしまった。オフィス街では休業中のスタンドが目につき、営業中のスタンドでも置かれている雑誌の種類は明らかに少なくなり、中国・香港の政治情勢や内幕モノを掲載する雑誌は皆無となった。その代わりに、エロ本のスペースが広くなったスタンドも見かけた。毎年8月は、北戴河会議で何が議論されたか、長老がどのような発言をしたか、などの情報に溢れていたものである。ましてや今年は秋に党大会が開催される。この時期であれば、共産党の次期最高指導部の人事の下馬評が、雑誌の表紙を賑わしてきたのがこれまでの風物詩だった。それらが全く見当たらないことに、国安法の威力を感じた。

毎年天安門事件の追悼集会が開催されていたヴィクトリア・パークの真ん前にある中央図書館(公共図書館)に新たな研究プロジェクトの資料を探しに行った。国安法により公共図書館から多くの書籍が撤去されたという話を聞いていた。もっとも、「政治」関連書籍の書架には、タイトルに「雨傘運動」を含む書籍が依然として置かれていてホッとした。以前の蔵書リストを確認する術はないので、中には撤去された書籍もあるだろう。しかし、中国本土における「六四事件」関連書籍のように、当局の意向により「なかったことにする」という歴史の改竄が行われているのではないかという心配は杞憂だったようである。次回訪問の際には、廃刊に追い込まれた『蘋果日報(Apple Daily)』のバックナンバーが閲覧可能かどうか確かめたい。

香港大学の図書館(Main Library)は、筆者が論文執筆や翻訳出版の際に大いに活用させてもらった馴染みの場所である。若年層による反政府抗議活動が過激化していた2019年は、部外者の立ち入りが厳しく管理され、図書館はおろか大学構内へも足を踏み入れることができなかった。今回は入構規制は一切なく、図書館で訪問者(visitor)としての入館証を取得するため、身分証や紹介状などを事前にウェッブ登録する必要があるものの(以前は入口カウンターで提示すればその場で入館証が発行された)、外国人の研究者に対しても開放されていることが確認できた。資料のコピーは決済システムがデジタル化されていたが、問題なく行うことができた。

情報の自由度の確保は、国際都市として栄えていく上で重要である。研究者の視点からは、香港特有の中国情報を盛り込んだ書籍・雑誌が、街頭の新聞スタンドや書店から影を潜めたことに寂しさを感じた。いわゆる「香港情報」は、真偽はともかく、中国・香港を分析する上で多くのアイデアや思考の材料、そして何よりも刺激を提供してくれていたものである。

政府関連の公的文書等は、一応従来の公開性が確保されているようである。一方、出版・言論の自由は、自主規制という形も多いが、明らかに制限されている。この状況が長期的に続くことになれば、香港の情報基地としての魅力が大きく損なわれよう。そうならないことを切に願うものである。
(2)に続く

※1 サムネイルの写真、また本ページの写真は全て筆者撮影。
※2 サムネイルの写真は、下記3つの写真のコラージュ。
(左端)マカオのホテルのシングル料金表。$0は営業していないことを示す。
(真ん中)オフィスビル入館時にスキャンするQRコード。
(右端)賑わう歩道。

書名 香港 失政の軌跡─市場原理妄信が招いた社会の歪み
レオ F・グッドスタット 著
曽根 康雄 監訳・訳
出版年月日 2021/10/06
ISBN 9784561913177
判型・ページ数 A5判・240ページ
定価 定価3300円(本体3000円+税)